日本でも「メディアリテラシー」という言葉がよく使われるようになりました。学校教育の場で「メディアリテラシー教育」の充実を求める意見も強まっています。
ただ、「メディアリテラシー」という言葉は、使う人によって、かなり異なった意味で解釈されています。
ルネ・ホッブス・米ロードアイランド大学教授は、アメリカで長年にわたりメディアリテラシー教育を牽引し、多数の著書もある第一人者です。ホッブス教授に、メディアリテラシーという言葉をどうとらえるべきかや、アメリカのリテラシー教育の特徴や課題などについて、オンラインでインタビューしました。前篇・後篇の2回に分けて、掲載します。(構成:宮崎洋子, 山脇岳志)
ルネ・ホッブス(Renee Hobbs)
ロードアイランド大学教授。 同大学でメディアリテラシー教育の普及や調査を行っているMedia Education Lab創設者で現ディレクター。ミシガン大学コミュニケーション修士課程修了、ハーバード大学教育大学院博士課程修了(教育博士)。著書は、『デジタル時代のメディア・リテラシー教育 中高生の日常のメディアと授業の融合』(東京学芸大学出版会, 2015)など多数。
メディアリテラシーには5つの支柱がある
― デジタル時代における最も重要なメディアリテラシーは何でしょうか。
下記のダイアグラム(チャート図)をご覧ください。メディアリテラシーは、いくつもの能力が組み合わさった集合体(constellation)と考えることができます。
constellationとは、星の集合体、つまり星座を意味することもある言葉です。
メディアリテラシーで中心となる能力は、アクセス(access)、分析(analyze)、創造(create)、振り返り(reflect)、そして行動(act)の5つであると考えます。それぞれ、色のついたボックスで示しています。
他の用語は、それらを具体化した能力や習慣、行動を示しています。
メディアリテラシーのそれぞれの能力は、夜空における星のようなものです。
メディアリテラシーも、文化や科学技術、社会の変化に応じて、変わり続けていくのです。
私は、20年以上、メディアリテラシーに取り組んでいますが、メディアリテラシーは知識やスキルだけでなく、人々の習慣や生き方によっても変化すると気がつきました。新しい知識やスキル、習慣などがメディアリテラシーの5つの支柱に対して、常に影響を及ぼしています。
コロナを例にとってみると、在宅勤務が主流になり、オンラインで対話をするのが普通になりました。ZOOMを使うと、お互いが違った空間にいるわけですが、そこでの感情の伝え方は、一つの空間にいるのとは異なってきます。それを習得することも、メディアリテラシーの一部だと思います。
― メディアリテラシー教育の中で最も重要な目標は、批判的思考(critical thinking)を身に付けることと理解していいですか?
現在、私が最も関心を持っていることの1つが批判的思考です。
英語圏では、批判的思考に、2つの意味があると考えています。
一つは、メディア・メッセージがどうやって構成されたかです。(注・この場合のメディアは、マスメディアだけでなく、世の中に飛び交うあらゆる情報の媒体を指す)
構成を考える上では、作者は誰で、何が目的か、注目を集めるためにどのような表現テクニックが使われているか、どんな価値観や視点が提示されているか、何が除外されているか、といった要素を考える必要があります。
そして、もう一つは、メッセージの後ろにある経済的や社会的な側面に目を向けることです。
例えば、次のような視点から考えることにつながります。
メッセージによって、誰が利益を得ているのか。
メッセージにはどのような偏見が織り込まれているのか。
メッセージは視聴者にどのようなインパクトをもたらしたか。
このメッセージによって選挙における投票行動が変わったり、例えば、新しい携帯電話を購入するようなことにつながったか。メッセージが、人々の行動にどのような変化をもたらしたか。
つまり、批判的という言葉を使うときには、社会学の文脈、心理学の文脈、そしてどのような結果をもたらしたのかなど、様々な角度から考え直すことが必要です。
アメリカのメディアリテラシー教育は「草の根」モデル
― アメリカのメディアリテラシー教育の特徴は何でしょうか?
1990年代に書いた論文で、初等中等教育におけるメディアリテラシー教育の実施には、メディアリテラシーを単体の科目として扱うやり方と、国語や社会、科学など他の科目に統合するという2つのモデルがあることを明らかにしました。
これは専門家の間でどちらがいいのか、議論を巻き起こすことになりました。
当時は、その2つのモデルのうち、どちらがいいのか私たちにもわかりませんでした。その後、たくさんの研究を重ねてたどり着いた結論は、その学校や地域で活用できる資源によって、どちらもあり得るというものです。
例えば、ある地域では、元ジャーナリスト、あるいは広告業界、ウェブ出版社で働いていた経験がある先生がいて、その方々の貴重な知識や経験をもとに、単体でメディアリテラシー授業を展開できるかもしれない。
しかし、そのような専門的知識を持っていたり、メディアリテラシーのコースをとったことがある教育者がいない地域も多くあります。
そのような場合は、メディアリテラシーを科学や数学、社会といった既存の科目と統合して教育カリキュラムに取り込み、(ジャーナリスト経験や専門的知見がない)学校の先生が教えるほうが現実的でしょう。
要するに、メディアリテラシーを単独で教える、あるいは統合する、どちらのやり方でも効果的に教えられている例はあり、どちらも機能していると言えます。
他国の初等中等教育におけるメディアリテラシー授業との比較で言えば、例えば、フィンランドのように、教育省がカリキュラムを作って、教師がそれに即して実施する国では、一定の方向性がみられますが、アメリカのように、連邦や州政府が弱く分権的で、教師の専門性への依存度が高い国では状況が全く異なります。アメリカではおよそ15000の学区がありますが、その学区(の学区長)に、カリキュラムなどの教育政策の決定権があります。
教師の自律性が高いということは、教師のトレーニングが大切にとなります。だからこそ、私は教師へのメディアリテラシー教育を重視しています。
それも、私たちが教師を教えるというより、教師の側が私たちにアクセスしてきて、メディアリテラシーについて学ぶことが多いです。そして教師たちはそれを学区に持ち帰り、校長先生や保護者等に「これは良い、ぜひやりましょう!」と説得し、実施しているんです。
ですから、アメリカのメディアリテラシー教育の実施方法は、「草の根アプローチ」と言えるでしょう。これはイギリスやフランスとも違うものです。フランスの場合、カリキュラムは完全に政府が管轄しています。メディアリテラシー教育を政府が管轄するのは、リスクもありますが。
― アメリカの地域によって、メディアリテラシー教育への関心の高さに違いはありそうです。保守的な地域では、やりにくいということはありますか?
20年前、メディアリテラシーの専門家の中には、「メディアリテラシーはリベラルなものと思われているが、どうやって保守層に届ければ良いか」と発言する人もいました。
これまで強固な保守層を抱える州も含め、ほぼ全ての州で教師向けの教育プログラムを実施してきましたが、私の印象では、保守層もメディアリテラシーに結構興味を持っています。
ただし、彼らの価値観が反映されています。
キリスト教福音派が強い地域を例にとると、彼らは、メディアリテラシーを信仰と価値に基づいて理解します。例えば、映画の中には、悪役が魅力的で善良に描かれているものもありますが、彼らは、これを文化的価値観の破壊と見なします。
ですから、保守的な地域のメディアリテラシーの教育者は、ハリウッドを好意的に見ていないですし、殺人を楽しむようなビデオゲームを創作するシリコンバレーを敵視しています。
一方で、リベラルな人々は、個人主義や多様性が重んじるため、これらの価値を重視したメディアリテラシーのカリキュラムが喜ばれます。
どちらの側も、彼らが信じる価値観によって、メディアリテラシー教育は歪められているケースがあると言えます。
― アメリカ全土で使える、中庸を重んじるようなメディアリテラシープログラムは、存在するのでしょうか?
保守とリベラル、両方の地域で活用できるメディアリテラシープログラムはあります。これまで長年にわたる国語(英語)教育の蓄積がヒントになります。
国語(英語)の教師は「言葉は力なり」という概念、言葉の使い方で世界を変えられるという考え方を、政治的には中立な形で教えています。ポップカルチャー、ニュース、広告、エンタメは全て言葉による表現で、社会的な権力の一形態であり、アート(art)の一形態でもあります。メディアを社会的権力としてだけではなく、アートとしてみると、政治色は薄まります。国語の中で、メディアリテラシーを教えるこのアプローチは、大変多くの地域で成功しています。
昨年11月、ウォルマートの拠点があるアーカンソー州のファイエットビルに行きました。とても保守的な町ですが、そこの国語の教師は皆さん、メディアリテラシーを教えています。
その授業では、子供たちにニュースやジャーナリズムを批判的に読む思考を養い、広告やプロパガンダなど誘引する類のコンテンツへの理解を深め、責任あるコミュニケーターとなることを手助けしようとしていました。
そのことによって、適切なウェブコンテンツにアクセスしたり、オンライン上でトラブルに巻き込まれたり、騙されたりすることがないように、さらにはどうすればメディアを活用して世の中を変えられるか、ということを教えています。
学校で何かおかしいことがあれば、メディアを使ってその課題への注目を集め、変えていくことができるということを知ってほしいと。これらは、全く政治的ではなく、誰でも実践できることだと思います。
公民教育・社会科との補完性
― アメリカでは、公民教育(civic education)とメディアリテラシー教育の関係はどう位置付けられていますか?2002年のブッシュ政権時代に導入された「どの子も置き去りにしない法(No Child Left Behind Act:NCLB)」によって、国語や算数、科学といった主要科目の点数で学校が評価され、公民教育や美術などは軽視されるようになったと思います。この法律の制定で、メディアリテラシーカリキュラムは何か影響を受けましたか?
この質問は、カリキュラムと教育政策の密接不可分な関係を理解するのに役立ちますね。確かに、NCLBの導入により国語(英語)教師の役割がより重視されるようになりました。
このこと自体はメディアリテラシーにとっては、良かったように思います。NCLBの中心となる共通基準にメディアリテラシーと同様の概念が盛り込まれたこともあり、一時は恩恵を受けたように思います。
NCLBが最も注目されていた時期、メディアリテラシーの能力を測る新しい試験がいくつか考案されました。
例えば、ETS(the Education Testing Service)が開発したiSkillsという、情報リテラシーとメディアリテラシーを組み合わせた試験は、よく考えられていたと思います。受験生は2つの情報源を比較して評価し、何が共通か、何が信頼できるかなどを回答する試験でした。
ただ、国語の教師はこの新しいテストをあまり使いたがらず、今では少し古くなってしまった感じです。
しかし、2011年、高校卒業時に憲法修正第1条や三権分立などが理解できていないとの調査結果が発表されると、試験対象科目の国語や算数に授業時間をとられすぎており、公民教育がなおざりになっていると気がついたんです。
マッカーサー財団が公民教育への資金援助を開始するなど、そこを修正する動きがあり、今ではマサチューセッツ州、イリノイ州では公民教育は必修科目になっています。
― 公民教育や社会科の教師がメディアリテラシーを授業で実施する例もありますか?
もちろん、社会科の教師がメディアリテラシーの授業を実施しているケースはあります。私の近著である『Mind Over Media: Propaganda Education for a Digital Age(メディアを乗り越える:デジタル時代のプロパガンダ教育)』では、社会科の先生による洗練されたメディアリテラシーの教育アプローチを紹介しています。
社会科におけるメディアリテラシーでは、ニュースの分析が重視されます。新聞の読み方だけでなく、ジャーナリズムがどうやって機能しているのか、ジャーナリズムと政府の関係、選挙キャンペーンなども学びます。
最近では、メディアの所有にも関心が高まっていて、社会科の授業でFacebookやGoogleがなぜ独占的になっているのか、それにどう対応するべきか、といったメディア業界の経済状態と規制の関係を盛り込む教師も増えています。
もう一つ、社会科の授業で最もよく行われている活動が、古い教科書と今の教科書との見比べる方法です。
これはどんな財政的に厳しい学校でも実施できますね。
例えば、私が小さい頃に読んだ1965年の教科書では、奴隷制度は悪いとは書かれていず、むしろ奴隷は幸せであると書かれていました。
これを2020年の教科書と比べて、1965年に書かれた歴史と、今の歴史がなぜ違うのか、子供たちに聞きます。
これをhistoriography(史学)といいますが、これもメディアリテラシーですよね?
私たちの理解がどのように時代とともに変化したのか、歴史学者は明らかにしています。社会的文脈により、知識の性質も変わってくる。メディアリテラシーの大変重要な部分だと思います。
― メディアリテラシーは、社会科で教えたほうがいいのか、国語や他の科目で教えられたほうがいいのか、意見はありますか?
前提として、私は全てのアメリカの子供が、初等中等高等教育のどこかで、メディアリテラシー授業を何らかの形で受けられるようにすることが大切だと思っています。
誰が教えるのか?これについては、大きな屋根をイメージして考えてみましょう。
実は、誰でもメディアリテラシーは教えられるのです。
実際、2歳の子供に、親はメディアリテラシーを教え始めていますよね。私は3歳の孫がいますが、スマートフォンで孫の部屋の写真を撮ると、「僕のテディベアが入ってないよ」というので、「これには枠(フレーム)があるでしょ。全部は入らないのよ。メディアのメッセージというのは、いつも選ばれていて、全ては入らないのよ」と、教えています。
ですから、誰が教えるのか、という議論に陥るのではなく、誰もが教えられると考えるべきです。
大きな屋根の下には医療従事者、映画監督、画家、ジャーナリストなどを、幅広く取り込んで、メディアリテラシーを子供たちに伝えていくことが大切です。