書籍『メディアリテラシー 吟味思考(クリティカルシンキング)を育む』の刊行を記念したウェビナーがこのほど開催されました。議論のテーマは「デジタルと吟味思考をつなぐ」。デジタル時代の市民教育=デジタル・シティズンシップの可能性を研究者、哲学者、教育の現場を知り尽くす実践者が語ります。本稿は全3回に分けて掲載する議論の第3回目(第1回目・第2回目)。登壇者の肩書は、ウェビナーが実施された2022年2月当時。
前田康裕 熊本市教育センター主任指導主事
熊本大学教育学部美術科を卒業後、公立の小中学校で25年教える。現職教師を務めながら岐阜大学教育学部大学院教育学研究科を修了。熊本大学准教授などを経て現職。著書に『まんがで知る 教師の学び』『まんがで知る 未来への学び』シリーズ(さくら社)他著書多数。
苫野一徳 哲学者・教育学者
熊本大学教育学部准教授。早稲田大学大学院教育学研究科博士課程修了。著書に、『学問としての教育学』『「学校」をつくり直す』『はじめての哲学的思考』『子どもの頃から哲学者』『どのような教育が「よい」教育か』など多数。
今度珠美 鳥取県情報モラルエデュケーター 国際大学GLOCOM客員研究員
鳥取大学大学院修了。年間150回以上、学校や教員向けのメディアリテラシーやデジタルシティズンシップの授業、研修を行っている。共著に『デジタル・シティズンシップ コンピュータ1人1台時代の善き使い手をめざす学び』(大月書店)など。
山脇岳志 スマートニュース メディア研究所 研究主幹
京都大学法学部卒業後、朝日新聞社に入社。調査報道担当、ワシントン特派員、GLOBE編集長、アメリカ総局長、編集委員などを経て退職。2020年4月にスマートニュース メディア研究所 研究主幹就任。京都大学経営管理大学院特命教授を兼務。
デジタルシティズンシップとメディアリテラシー
山脇 今度さんには、本書の第6章「デジタルシティズンシップとメディアリテラシー」を執筆いただきました。とくにどのあたりを訴えたかったのでしょうか。
今度 デジタルシティズンシップの中でメディアリテラシーがどのように位置づけられたのかを研究してきて、日本で行われてきたメディアリテラシー教育との違いが非常に明確になってきたので、それを中心に書きました。
デジタルシティズンシップは、批判的に考え,責任をもってテクノロジーを使用して学習、創造参加することを学ぶ市民教育で、1990年代初期に米国で誕生したとされています。初期は今とはちょっと違っていて、インターネットには危険が潜んでいるから、子どもたちから遠ざけなければいけないとリスク管理が重視されていました。しかし、子どもたちも含めた社会がインターネットの活用なくしてはあり得ない状況になってきたため、2010年以降はデジタルへの参加をメリットととらえて、ICTのよき使い手になるという現在のデジタルシティズンシップへと移行していったのです。
そのデジタルシティズンシップにメディアリテラシーが包摂されたきっかけは、2016年に起きた出来事です。この年はトランプが米国の大統領選挙に当選し、その選挙戦では膨大なフェイクニュースが発信されました。また、フェイクニュースやデマ情報の作成・拡散を請け負う悪質な業者が出現し、フェイクニュースが一大ビジネスとなりました。こうした現象は社会の分断を広げ、民主主義の根幹を揺るがしかねないと多くの教育者やメディア関係者は危惧し,ネットでもリアルでも同じ考えの人とだけ会話するような状況に対し,多様な考えの人と議論する場面を教育現場に作ることが急務ではないかと指摘するようになりました。その結果、メディアリテラシーが重要視されるようになり、デジタルシティズンシップに包摂された、という経緯がありました。
メディアリテラシー教育の実践例
米国では幼稚園からデジタルシティズンシップを学び始め、高校3年生までの教材が用意されていることが大きな特徴です。教材として世界的に有名なものに「Common Sense Education」(https://www.commonsense.org/education/)があります。
この教材では「メディアバランス」「プライバシーとセキュリティ」「デジタル足あととアイデンティティ」「対人関係とコミュニケーション」「ネットいじめ、オンライントラブル」「ニュース・メディアリテラシー」の6領域を扱っています。
驚くのは、子どもたちは小学校2年生から毎年メディアリテラシーを学べるようなカリキュラムが組まれていることです。日本の学校でデジタルシティズンシップの授業をすると、先生方は大抵6つの領域の中からメディアバランスやネットいじめを選ぶことが多く、メディアリテラシーを依頼されることはほとんどありません。毎年メディアリテラシーの授業をしている学校は多くないと思います。米国で毎年学べるカリキュラムが組まれているのは非常にうらやましいと思います。
山脇 もともとのシティズンシップ教育に「デジタル時代における」という位置付けを与えたと考えていいのでしょうか。
今度 現代社会はデジタルが前提ですから。デジタル社会における市民教育であるということです。
参考記事:
・デジタル・シティズンシップとメディアリテラシー~情報モラル教育との違い~今度珠美(前篇)
・デジタル・シティズンシップとメディアリテラシー~米国の代表的な教材「コモンセンスエデュケーション」~今度珠美(後篇)
山脇 苫野さんに伺いたいと思います。デジタルシティズンシップの本質を、市民社会、市民教育との関係について読み解いていただけますか?
デジタル社会と市民教育をつなぐには
苫野 市民社会は、一部の権力者によって作られる社会ではなく、自分たち市民で作り合う社会です。その市民を育むことは、これをやらずに何をやるのかというぐらい大事な学校教育の根幹です。より良いデジタル社会をどのように作り合うことができるかをともに考え、作り合う。そのための教育がデジタルシティズンシップの教育なのではないでしょうか。
前田 教育の実践の場にいて思うのは、「自分たちの行動が社会を良くしていく」という実感を伴った学習の必要性です。
例えば、6年生の国語の教科書で扱われている『フェアトレード(公正公平な貿易)』。今までだったら、説明文を読み取るだけで終わっていたのですが、フェアトレードは探究型の学習に発展できます。熊本市内のある小学校では、フェアトレードに携わっている人を学校に招いて、子どもたちに話をしてもらいました。その方から「フェアトレードは世間では知られていない。」ということを聞いた子どもたちは「自分たちにできることはないか」と考え、ポスターやコマーシャル映像を作って、書店やスタジアムで流してもらったりしたのです。
このように、メディアによって自分たちが社会に貢献できる、より良い社会を作れる、社会の作り手になれるような学習活動が増えてほしい。そうした単元構成にしていく必要があると思います。
山脇 デジタルシティズンシップをもっと日本で広めていくためには、教育現場ではどういうことが必要でしょうか。
今度 子どもたち自身に対話や議論を委ねることが大切だと思います。多様な考え方や価値観があり、自分のとらえ方がスタンダードではないということを知る経験が必要です。
でも、授業において実際に出てくる答えは子どもたちそれぞれで、先生自身が「こういうふうにメディアと向き合ってほしい」と考えていても、なかなか難しいところがあります。そうした時、先生から「最後に今度さんがひとこと言ってもらえませんか」とか、「結論は何ですか?」と言われることがあります。日本の多くの授業では、オープンエンドで終われないところが難しいと感じることがあります。
オープンエンドで授業を終わらせてもよいか?
山脇 今度さんが、授業をオープンエンドで終われないという、重要なことをおっしゃいました。「結論は何ですか」と先生から言われることは、我々の研究所が実践しているメディアリテラシーの出前授業でも結構あります。
でも、結論が出ない授業というのは十分あり得て、それによる学びもたくさんあると思います。一方で、オープンエンドで終わらせてくれない先生もおられます。
前田 おそらく正解主義的なところが残っているのだと思います。今までだったら手を挙げた子が気の利いた発言をして、それで何となくクラス全体が分かったような気になっていた。でも、デジタルの時代は子どもたちが学んだもの、書きこんだものをいっぺんに共有できます。30人いれば30通りの学び方があり、学んだ内容が違うのだということがわかります。
自分が考えたことと全然違ったことを考えている子がいて驚いたり、感心したりする。そのためにはオープンエンドでもいいわけですが、オープンエンドと限定しなくてもよくて、さまざまな学びがあることを知ることが、自分の学びにもつながっていく。それがデジタル時代の学びだと思っています。
苫野 興味深いお話だと思います。オープンエンドは下手をすると、対話の希望を失わせることがあります。「どれだけ話をしても結論は出なかったね。でも話し合えてよかったね」で終わると、何のための対話だったのかとなります。だからといって、「絶対に正しい正解にたどり着け」という話でもない。
対話にとって大事なのは、何がしかの仕方で共通了解を見出し続けることです。「われわれはここまでは納得できる。でも、ここからはなかなか納得できない」というのも一つの共通了解です。
常に共通了解を更新し続けていくということが重要で、対話を通して納得し合えるところが見つかることを知るところに市民社会の希望があると思います。みんな違うけれど、ここは納得し合うこともできるねという経験を積み重ねるのが、デジタルシティズンシップ教育においても大事なのではないでしょうか。
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(司会者が参加者からの質問をご紹介しました)
ー何をすればクリティカルシンキングにつながるのでしょうか。
前田 子どもたちがどういう状態になった時に「学習が成立した」と言えるのか、評価の基準的なものは持っておく必要があります。例えば表の読み取りができるとか、このグラフから事実を言えるようになるとか。
もう一つは、それを子どもたち自身が分かってやるかどうかがすごく重要です。何か発表するだけではなく、発表するプロセスで資料を読み取り、そこから何か事実を発見して言えるようになることも学習の一つだということを分かってやる場合と、単に発表する場合では違います。子どもたち自身が分かっておくということはすごく重要です。
ー米国でデジタルシティズンシップ教育が行われているのに、どうして連邦議会議事堂の襲撃事件みたいなことが起き得るのでしょうか。
苫野 教育は万能ではありません。でも、だからこそ、教育が大事なのです。あの襲撃事件には様々な背景があると思うのです。民主主義の危機が叫ばれましたが、民主主義は私たちが意識的に、常に、作り続けなければいけないものですから、その意識を失った瞬間に崩れてしまいます。それは歴史からも学べます。
山脇 メディアリテラシー教育については米国のほうが日本よりも浸透していると思いますし、カナダや英国は、米国よりももっと進んでいます。しかし、米国ではフェイクニュースやデマ情報などがものすごくばらまかれているし、陰謀論を信じている人も多い。メディアリテラシー教育も万能ではありません。ただ、効果がないわけではありません。襲撃事件以降に公民教育やメディアリテラシー教育の重要性がさらに注目されています。
カリフォルニア大学のジョセフ・カーン教授の研究なのですが、米国で15歳から27歳までを対象に調査したところ、政治的知識を多く持つ若者ほど自分の政治的なバイアスにとらわれて、事実であるSNSも不正確だと判断する傾向がありました。一方で、高い水準のメディアリテラシー教育を受けた若者は、自らの政治的志向の影響を受けるものの、「事実の正確性に依拠して判断する傾向」が強い、という結果が出ました。
フェイクニュースかどうかを見極める上では、知識をたくさん持つ生徒が、正しい判断ができるわけではないということです。
メディアリテラシーというのは誰でも身に着けることができるスキルなので、学校教育の中でやっておけば、事実かそうじゃないか、フェイクニュースかどうかという見極めもできるようになる。そういう教育を受けた若者は、受け取った情報が事実であれば、自分の持つ信念と違っていても受け止めることができるということです。日本でもこれだけ虚偽情報、デマが流れている中で、メディアリテラシーの重要性が高まっていると思います。
「対話」を通して「共通了解」をみつけよう
ー 何か家庭でできる対話のコツのようなものはありますか。
苫野 娘が小学4年生ぐらいから6年生ぐらいまで、親子で寝る前に「哲学対話」を続けていました。お互いにちょっと気になっているテーマで話し合うのですが、「友情って何だろう」「大人になるってどういうことだろう」などテーマは何でもいいんです。本質を問うていく対話は、結構気軽にできるものです。10~15分やるだけでも、子どもってこんなところまで考えているのかと知れたり、知らぬ間に成長しているのが見えたりします。
小学生ともよく哲学対話をするのですが、皆が口をそろえて言うのは、学校の勉強では正解を求められるけれども、この対話では共通了解を見つけ出し合っていくのが楽しい、と。「この答え、自分たちで見つけたぞ」という楽しさがある。こういう思考力は機会さえ整えれば、どんどん鍛えられるという確信があります。
ー 対話を成立させ、共通了解にたどり着くには、子どもたちはどのようなスキルを身に付ける必要がありますか。
苫野 共通了解を見出し合えたという希望の経験を積めば、確実に大丈夫という感じが私にはあります。私たちには対話を通じた共通了解の経験を積み上げるという経験が圧倒的に不足しているので、「論破だ」などと安易に言ってしまうようになるのです。対話することは何らかの共通了解を見出し合うことですから、そういう経験を積んでいくのが良いでしょう。
ただし、次の3つのことが前提となります。何か絶対的に正しい考えがあるのではないこと、私たちは欲望や関心に応じてものを認識していること、だから欲望と関心を開示することが大切だということ、です。対話の背景として「私はこんな関心や欲望を持っています」と開示すると、「なるほど、それなら分かるよ」という共通了解ポイントが見えてきます。
ー 「人権なんかクソ食らえ」「独裁者万歳」と本気で言っているような人たち、つまり最も吟味思考が必要な人々にメディアリテラシー教育をすることを考えると、人権、民主主義の中にメディアリテラシーを位置付けるには難しいところがあるのではないでしょうか。
今度 「人権なんてクソ食らえ」と言う人には届かないということは繰り返し言われます。でも、やっぱり学ばなきゃいけないんです。知識がないと、情報の誤りに気づけませんし、どんな情報が差別や偏見につながっていることも分かりません。メディアリテラシーをなぜ学ばなければいけないかというと、メディアを見間違えることが社会の分断や差別、偏見につながることがあるからです。何を目指すのかという視点が違うということだと思います。
苫野 デジタルシティズンシップ教育の中で、そもそも民主主義とは何か、人権とは何か、なぜそれを大事にする必要があるのかを問い合うことが大事だと思います。
人権というのは、ある意味ではとてもよそよそしい概念です。人権の哲学者、金泰明さんによれば、哲学には「価値的人権原理」と「ルール的人権原理」という二つの流派があります。「価値的人権原理」は、人権をある種の絶対的な価値として示す考えです。例えばジョン・ロックによれば、人権は「神に与えられたもの」です。でもこれは検証不可能なので、「本当なの?」と言われたらおしまいです。一方の「ルール的人権原理」は、自由の相互承認、つまりお互いに人権を承認し合うというルールのもとに社会を作っていこうという考え方です。
私たち人類は自由をめがけて何万年もの間、宗教が違う、信仰が違うといった理由で殺し合ってきたわけですが、250年ぐらい前に「ルール的人権原理」が芽生えることになりました。これは哲学者たちが長い時間をかけてたどり着いた英知ですが、これについても「本当にそう言えるの?」と子どもたちと対話すればいいと思うのです。
(注・時事通信社主催のウェビナーは2022年2月26日に開かれ、約300人の方々が参加されました。このサマリーは、時事通信社、パネリストの皆様方の許可を得て、掲載しています。原稿化する上で、話し言葉を書き言葉にしたり、文脈上、意味を通りやすくするための微修正をしています)
*本稿は全3回に分けて掲載する議論の第3回目。
・第1回 デジタルと「対話」で、「吟味思考」を育てようはこちら
・第2回 人は見たいものを見る、そのことに自覚的でいよう──教育哲学の視点から考えるメディアリテラシーはこちら