ウェビナー『デジタルと吟味思考をつなぐ』開催レポート2〜:人は見たいものを見る、そのことに自覚的でいよう──教育哲学の視点から考えるメディアリテラシー

2022.04.25
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書籍『メディアリテラシー 吟味思考(クリティカルシンキング)を育む』の刊行記念ウェビナーが、2022年2月26日に開催されました。議論のテーマは「デジタルと吟味思考をつなぐ」。デジタルメディア全盛時代のクリティカルシンキングと、「欲望」や「関心」を徹底的に突き詰めた現象学はどのように接続可能なのか。パネリストが語ります。本稿は全3回に分けて掲載する議論の第2回目。(第1回はこちら)
(登壇者の肩書は、ウェビナーが実施された2022年2月当時)

前田康裕 熊本市教育センター主任指導主事
熊本大学教育学部美術科を卒業後、公立の小中学校で25年教える。現職教師を務めながら岐阜大学教育学部大学院教育学研究科を修了。熊本大学准教授などを経て現職。著書に『まんがで知る 教師の学び』『まんがで知る 未来への学び』シリーズ(さくら社)他著書多数。

苫野一徳 哲学者・教育学者
熊本大学教育学部准教授。早稲田大学大学院教育学研究科博士課程修了。著書に、『学問としての教育学』『「学校」をつくり直す』『はじめての哲学的思考』『子どもの頃から哲学者』『どのような教育が「よい」教育か』など多数。

今度珠美 鳥取県情報モラルエデュケーター 国際大学GLOCOM客員研究員
鳥取大学大学院修了。年間150回以上、学校や教員向けのメディアリテラシーやデジタルシティズンシップの授業、研修を行っている。共著に『デジタル・シティズンシップ コンピュータ1人1台時代の善き使い手をめざす学び』(大月書店)など。

山脇岳志 スマートニュース メディア研究所 研究主幹
京都大学法学部卒業後、朝日新聞社に入社。調査報道担当、ワシントン特派員、GLOBE編集長、アメリカ総局長、編集委員などを経て退職。2020年4月にスマートニュース メディア研究所 研究主幹就任。京都大学経営管理大学院特命教授を兼務。

 

「絶対的に客観的な真理がある」という考えを脇に置く

山脇 苫野さんには、教育哲学者としての立場から今回の書籍『メディアリテラシー』の感想をうかがいたいと思います。

苫野一徳さん(本人提供)

苫野 実践的であると同時に、それを支える哲学の部分がとても分厚いと感じました。現代は、何が本当で何が嘘かが分かりにくいですよね。こういうときは特に、「絶対的に客観的な真理がある」という考え方を脇に置く必要があります。これを現象学という哲学では「エポケー」=「判断中止」といいます。実際にメディアや報道をめぐる議論を見ていると、「お前はこんな情報に踊らされているのか」「いや、お前こそそれを信じているのか」という展開になることがありますが、何か正しいものがあると思うから、いつまでも戦いや対立が収まらないことになるのです。

哲学には「欲望-関心相関性の原理」という考えがあるのですが、私たちの認識や信念などは、実は私たち自身の欲望や関心に彩られています。その観点からすると、(第3章に出てくる)メディアリテラシーの5キークエスチョンはとても優れているものだと感じました。つまり「メッセージの作者は誰か」「どんな表現技術が使われているのか」「他の視聴者はどんな解釈をしているか」「どのような価値観が表現または排除されているか」「なぜこのメッセージは送られたか」ーーーこの5つを踏まえておくと、報道やさまざまな言説を見る目が養われれるという非常にシンプルでプラクティカルな考えが示されているのが面白かったですね。

山脇 「欲望」という概念が出ました。メディアリテラシーと欲望の関係をご説明いただけますでしょうか。

苫野 哲学の長い歴史に「主観・客観問題」があります。われわれの主観は「絶対に正しい客観」を正しく認識することができるのか、というのがテーマです。その背景は、メディアリテラシーの問題や関心とも重なっています。

例えば、さまざまな信念や価値観、信仰がある中で、人びとは「われこそが正しい」といって殺し合ってきました。そうした歴史を踏まえ、哲学者たちは「絶対に正しい真理というものを認識できるのか」と考えて探求を続けたのですが、絶対的で客観的な真理など、どう頑張っても認識できない、という結論にたどり着いたのです。一つだけ分かりやすい例を挙げます。「カラスは黒色である、というのは絶対に正しい真理ではないか」といっても、私が見ている黒と山脇さんが見ている黒が本当に同じ黒かは分かりません。いわんや、情報や意味、価値などについて、絶対に正しいものにはたどり着けないでしょう。

他方で、われわれが世界をどう認識しているかを最も根源にまでたどると、欲望や関心に相関的に見ている、ということはおそらく確かです。水が渇きを潤すためのものとして認識されるのは、その欲望に相関的に見ているからです。そのため、火を消したいという別の欲望を抱くとき、水はその道具として立ち現れるのです。

どういう欲望や関心を持って情報を認識しているのかーーこのことに自覚的であること、そして、振り返って考えてみることがとても大切です。何か絶対に正しいものがあるのではなく、私たちにはこういう欲望や関心があるからこう見えるのだ、と考える。最近のウクライナへの侵攻に関する情報に対しても、こうしたメディアリテラシーが問われていると思っています。

他者との対話では、「このような欲望や関心があるから、この現象をこう見ています」と互いに開示し合うことで、お互いの考えについて吟味し合うことができるようになります。そこを無自覚なまま、あるいは隠したまま、「これがこの報道の真実だ」とか「いま起こっていることの真実はこれだ」などと情報を発信すると、「神々の戦い」になってしまうのです。

 

欲望を内省し、だから「こう考えがちだ」と認識する

山脇 非常に深いお話でした。人は見たいものを見るところがある、そのことに対して自覚的でなくてはいけない。クリティカルシンキングでも、大きな要素の1つに「内省」があります。現象学から得られる考えとしては、自分が持っている欲望や関心について内省し、「だからこう考えがちだ」と自分の認識の癖を把握することが大事だということでしょうか。

苫野 そうです。内省するためには対話が必要で、これこそ学校でやるべきことです。学校という多様な価値観が渦巻く場でこそ、対話を通して、互いにどんな欲望や関心があり、そこから世界をどう見ているのかを理解し合う機会をたっぷり整えるのです。この点にこそ希望があるのではないでしょうか。

山脇 議論の本質的なところにたどり着いたと思います。苫野さんのご発言を聞かれて、今度さんはどんな感想をお持ちになりましたか?

今度珠美さん

今度 私たちは自分の持つ価値観やバイアスを通して情報を認識するので、自分が受け止めたいように認識してしまいがちです。そうしたバイアスをいかに乗り越えるか。これを子どもたちに考えてもらうことが大切だと思いました。デジタルシティズンシップの中のメディアリテラシー教育では、「私たちにはこうしたバイアスがあり、それを通して情報を見ている。それをどうやって乗り越えていくのか」と生徒たちが考えていくように作られています。

山脇 書籍『メディアリテラシー』で今度さんは「確証バイアス」について書かれていました。バイアスは、自分も含むあらゆる人にあるという自覚が大事だと思います。苫野さんがおっしゃったように、人と話すことで自分のバイアスを自覚できる部分があると思います。前田さん、いかがでしょうか?

前田 メディアリテラシーというと、メディアのことばかり考えてしまいがちです。しかし、与えられた情報が真実かどうかを考える場合、自分はどういう見方をしているのか、どういう関心や欲望があるのかという前提に思い至らないと、きちんとした判断はできません。だからこそ、省察がすごく重要になります。また、メタ認知の部分もすごく大切です。特にSNSの場合、どうしても自分に関心のある情報ばかりが集まりやすくなります。SNSの特性を理解しつつ、自分の関心と欲望を認識できる力が必要です。

山脇 メディアリテラシーでやるべきこととして、「発信者の意図を見抜く」と書いてあるものがあります。しかし、実際には、発信者の意図を正確に見抜くことは難しく、それを目的にすべきではないように思います。むしろ「自分にはこういうバイアスがあるから、こう受け止めているんだ」と認識した方がいいかもしれませんね。

苫野 発信者の意図だと私たちが考えたものーそれ自体が、実は私たちの欲望や関心に相関的なものなんですね。

あと2つ指摘しておきたいことがあります。まず、現象の本質を見極めようとするとき、絶対に正しい本質はないのですが、本質的な見方や押さえておくべきポイントはあるのです。ウクライナ問題にしても、例えばプーチン大統領ひとりの性格が全ての理由だ、という考えはあまり本質的ではありません。さまざまな現象は、基本的にスパイラル(連鎖する変化)です。何かがこうなったという現象には、ありとあらゆるスパイラルな条件が重なっています。現象を過度に単純化するのではなく、そのスパイラルの構造をとらえることが重要で、現象の構造的な本質をとらえようという観点や、何がより本質をとらえているかと吟味していくことが大事です。もちろん、構造のとらえ方それ自体がわれわれの欲望や関心に相関的であることを意識しながら。

 

価値がなければ本質に迫れない

苫野 もう1つは、どんな社会を作っていくべきか、あるいは、良い社会や良い教育とは何なのか、そういう目指すべき価値を押さえておかなければ議論ができないということです。学校であれば、現在の問題についてどれだけ吟味しても、目指すべき価値がなければ答えは出てきません。そもそもどういう学校を作りたいのか、どういう教育を良しとするのかという価値が必要なのです。そういった価値に狙いを定めて議論すれば、より本質的な答えにたどり着けるようになります。

「欲望-関心相関性の原理」。スパイラルな現象の本質を見極めていくこと。そして、そもそも私たちは何を目指すべきなのかという哲学的な本質論。この3つをしっかりと押さえながら議論すると、とても建設的になると思います。

山脇岳志

山脇 話が深まっていきますね。クリティカルシンキングは重要ではありますが、内省することで自分のバイアスを発見していくことは高度な作業だと思います。内省ばかりしていると疲れてしまったり、自己肯定感が低くなったりすることもありえます。また、吟味思考は大事だけれども、世の中には白黒つけがたい情報も多く、すべての情報の真偽を見極めたり、本質的に考えたりすると大変なので、あいまいなものはあいまいなままにしておいていいんだという指摘もあります。苫野さんはどう思われますか。

苫野 白黒つけるべきなのか、あいまいなものはあいまいなままにしておくべきなのか、というのは、議論や対話の「目的」や「状況」によると思います。議論や対話というのは、つきつめると、異なる人びとが暴力を避け「共に生きる」ためにすることだろうと思います。だから、ある時は白黒つける必要もあるかもしれないけれど、ある時は、あいまいなものはあいまいなままに、あるいは、この部分はあいまいなままにするけれど、この部分は一定の共通了解を見出し合う、といった具合に、目的や状況に応じて議論の仕方を変える必要があるだろうと思います。

内省ばかりしていると疲れてしまうという問題についても、その通りですね。でも、それはやりようだとも思うのです。例えば哲学対話で一番手軽にできるのが「価値観・感受性の交換対話」です。映画や小説、音楽でも何でもいいのですが、「自分はこれをこう読んだ」と価値観や感受性を交換するのです。そうすると、相手と似ているところや違うところが見えてきて、自分の価値観や感受性が見えてくる。これはそれほど疲れるものではありません。対話をする中で「自己了解」が深まり、「他者了解」が深まり、「共通了解」が深まっていく。四六時中やる必要はありませんが、内省力を気軽に鍛えていくことはできると思います。

山脇 クリティカルシンキングをやりすぎると疲れることや、「あいまいさに耐える力」について、前田さんいかがでしょうか。

前田康裕さん

前田 私もあいまいさに耐える力は必要だと思います。社会には白黒はっきりしないことばかりありますから。それについては自分の中でも「これについて私はこっち寄りだな」などと、ある程度の偏りを飲み込んでいくことも必要だと思います。ただ、内省については私もやり方次第だと考えています。授業でも今回のようなディスカッションでも、私は終わったときに簡単なメモを書いておきます。内省をアウトプットして形にしておくと、疲れや落ち込みだけでは終わらず、次に生きる機会に変えることができるのです。うまくいかなかったことや失敗したことも自分の中の学びだととらえると、それほど疲れないのではないかと思っています。

山脇 確かに、そのように切り替えていくのは大切ですね。

 

(注・時事通信社主催のウェビナーは2022年2月26日に開かれ、約300人の方々が参加されました。このサマリーは、時事通信社、パネリストの皆様方の許可を得て、掲載しています。原稿化する上で、話し言葉を書き言葉にしたり、文脈上、意味を通りやすくするための微修正をしています。また、登壇者の方々の肩書きは、ウェビナー開催当時のものです。)

 

*本稿は全3回に分けて掲載する議論の第2回目。

第1回 デジタルと「対話」で、「吟味思考」を育てようはこちら

第3回はこちら第3回 メディアリテラシーは誰でも身に付けられるスキル──デジタル時代の市民教育へ続く