すべての情報は再構成されている~菅谷明子さんインタビュー

2020.11.26
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虚偽の情報やデマがインターネット上で広がるにつれ、「メディアリテラシー教育」の必要性が指摘されるようになっている。日本と米国でキャリアを積んだ菅谷明子さんは、いち早くメディアリテラシーに注目したジャーナリストである。この分野の著書もある菅谷さんに、メディアリテラシー教育が大切にすべきことや課題について、オンラインでインタビューした。(構成・中井祥子)

菅谷 明子
在米ジャーナリスト。ハーバード大学ニーマンジャーナリズム財団理事。コロンビア大学大学院修士課程修了、東京大学大学院博士課程満期退学。『Newsweek』日本版スタッフ、経済産業研究所(RIETI)研究員などを経て独立。2011-12年ハーバード大学フェロー(特別研究員)を経て、2014年から現職。著書に『メディア・リテラシー 世界の現場から』『未来をつくる図書館 ニューヨークからの報告』(共に岩波新書)など。

「クリティカルシンキング」が不可欠

― 2000年に出版された『メディア・リテラシー』が増刷(20刷)を重ね、ロングセラーになっています。この本で一番伝えたかったことはなんですか。

「今自分が知っていることを、どうやって知ったのか」と考えると、その大半はメディアに媒介された情報がもとになっています。生きる上で不可欠な存在になっているのに、メディアの特性を知る機会はほとんどありません。情報社会で生きる我々は、「すべての情報は、取捨選択され、再構成されたものである」と認識することが大事です。特に若い世代を育てる教育現場においては、情報を批判的・複眼的な目で見る「クリティカルシンキング(建設的な批評能力)」を教えていくことが不可欠だと思います。

― この20年、メディアリテラシーについて、どんな変化を感じますか?

特に1980-90年代の北米のメディアリテラシーは、「市民対マスメディア」といったシンプルな構造の中で捉えられるケースが多かったと思います。私はそうした図式には、個人的には違和感を持っていました。

インターネットが普及した1990年半ば以降から、メディアを取りまく状況は大きく変化していきました。市民自身の情報発信が可能となり、好きなことを何でも気軽に発信できるようになる一方で、根拠がないものや、無責任な発言や中傷も増えていきます。つまり「市民は良い」「メディアは良くない」といった単純な図式では捉えきれなくなったのです。それに伴って、従来のメディアリテラシーは少し停滞していったように思います。

2000年半ば以降からは、スマートフォンや、ソーシャルメディアが普及し、さらに最近は、フェイクニュースが広がるなど、情報社会の構造はより複雑化しています。そんな状況下で、情報を批判的に読み解くことの重要性が再認識されて、メディアリテラシーにまたスポットライトが当たっています。
とは言え、私はいつの時代でも、メディアリテラシーは大事だと思っています。100年前でも今でも、基本となる考え方である「すべての情報は取捨選択され再構成されたもの」と認識することが肝心です。民話や瓦版(かわらばん)の時代であっても、同じことだったと言えます。

― アメリカの最近のメディアリテラシー教育はどうなっていますか。

アメリカは州によってカリキュラムが大きく変わるので一概には言えませんが、メディアリテラシー的な考え方はかなり浸透しています。
独立した授業というよりも、英語(日本でいう国語)をはじめ様々な教科の一部として取り入れられています。

歴史を例に挙げると、日本では年代や人名の暗記が重視されますが、アメリカでは、なぜその出来事が起こったのかという背景にある社会情勢や権力構造など、他の国や別の時代にも応用可能な土台を重点的に考えさせていきます。
例えば、高校生の娘の最近の授業では、現代アメリカ政治のメディア戦略を分析した後に、ナチスのプロパガンダでメディアがどう使われたかを検証するものでした。また、事実と意見の違いや、物事を常に「本当にそうかな」と考えるクリティカルシンキングも、小学校低学年から教え込まれます。

メディアリテラシーは、第二次世界大戦時におけるプロパガンダへの反省から広まった経緯もあります。メディアリテラシーは決して新しいものではなく、テレビが出てくる以前からも実践され、メディアの変遷を経て、現在のメディアリテラシー教育の形に繋がっています。

権力を持つ人が自分に有利な情報を出すことは昔からあることです。だから、健全な民主主義を実現するには、市民が情報をそのまま受け取るのではなく、それが事実なのか、もっと別の見方がないか、何が隠されているのかなど、いったん立ち止まって情報を捉える訓練が大事になってきます。

アメリカのメディアリテラシー教育も多様ですが、情報の真偽を問う形式だったり、物事に白黒をつけようとするタイプの授業もあると思います。私自身は、真実というものは非常に厄介で、明確に白黒つけられないケースも多いと思っているので、そうしたアプローチに対しては、ややシンプルすぎるのではないか、と思うこともあります。

― アメリカと、日本のメディアリテラシーの違いを大きく感じる部分はありますか。

メディアリテラシーに率先して取り組んでいるのは、基本的には民主主義国家で、かつ、市民が批判的能力をつけることを重んじる国です。全体主義の国は「情報を疑いましょう」という教育はやりにくいですから。

民主主義の価値を重んじる教育には、批判的、複眼的にものを捉えるという教育はフィットします。力がある者が自分を有利にするために出す情報を、市民の側がチェックできてこそ民主主義という概念が、本質的に含まれているわけです。

しかし、日本の教育はクリティカルシンキングよりも、先生をはじめ「偉い人」が言うことが「正しい」として、そのまま受け止めることが大事にされがちです。

メディアリテラシーに関していえば、立場や視点が変われば異なる見方が出てくると認識するのも重要なポイントで、そうした見方が、結果的に物事をより深く理解することや、新しい発想、クリエイティブな考え方に繋がり、社会をより良い方向に導くと考えます。

とは言え、現実的には、日本の教育現場でメディアリテラシーを本格的に教えるのは、ハードルはかなり高いと思います。

OECDの国際教員指導環境調査(2018年)で、「児童全体の批判的思考を促す」と答えた教員は、参加国平均で80%を超えていたのに対し日本は20%台となっており、日本はこの点の取り組みが非常に弱いことがわかります。

メディアリテラシーは「公民教育」の一部として実施されることもあります。地域にもよりますが、近年では、政治の仕組み、貧困や格差、人種問題、社会の多様性などを考えさせる授業や、社会をよくするために行動を起こすことも奨励されます。そして、そうした学習には、メディアのあり方が、セットで教えられることも多いです。社会問題の理解は、メディアがどう伝えるかに大きく影響を受けるからです。

日本でも必要な学習だと思いますが、現実的に考えて、教育現場で継続して実行可能なメディアリテラシーの授業の工夫も必要です。

私が授業をさせてもらう時には、最も根底にある「情報がいかに再構成されているか」に焦点を当てた体験型のものにしています。学校外でも、楽しみながら学べるオンライン学習素材、夏休みなどを利用し図書館やミュージアムなどで幼少期からできる学びの場などを、積極的に作っていく必要があると考えています。

「命の順位付け」からわかること

― 日本で教えるとき、具体的にはどのような内容になるのですか?

私が大事に思っているのは、他人事のようなメディア批判ではなく、自分自身にも実は無自覚のバイアスがあることを、我が事として自覚してもらうことです。それも楽しい方法で。
よく使っていて、クラスで盛り上がり即効力があるのは『ウサギとカメ』のワークショップ(体験型授業)です。

「ウサギが寝ている間にカメが追い越してゴールする」あの誰でも知っているストーリーですが、その物語を書いたものと、それを9コマに分けた絵を渡し、それぞれのグループに、物語に忠実に並べかえをしてもらいます。
作業前には「そんなのみんな同じになるに決まってる!」とよく文句を言われるのですが(笑)、大体、7グループくらいでやっても、全く同じ並びになることはほとんどありません。
各グループで作ったものを、横に並べて張り出すと順番の違いが際立って、皆さんとても驚きます。私はこの瞬間、いつも「やったね!」とニンマリします。自分は全くニュートラルにやっているつもりでも、無意識の解釈が入り込んでくることを体感できる、お気に入りのワークショップです。

また、「命の順位付け」という授業をすることもあります。これは元TBS放送のジャーナリストの方から教えていただいた方法を発展させています。

人の命にかかわるニュースの見出しを、あらかじめ10ほど用意して、細長く切った紙に書いたものをセットで用意しておきます。

例えば、こんな感じです。

パリに行っていた日本人タレント1人が、事故で亡くなった
東京で川が氾濫して10人が亡くなった
チリの飛行機事故で300人が亡くなった
ソマリアの飢餓で500人が亡くなった

これらのニュースについて、読者に知らせるべきだと考える順に1から10まで縦に並びてもらい、各グループのものを横にずらりと張り出していきます。その並べた順番を比べながら「どうしてこれが一番上なの?」「なぜ下なの?」と考えていきます。

すると、人間の命は同じ価値のはずなのに、ソマリアで500人亡くなった記事よりも、亡くなった人の数が少ない記事が上位になることがあると、生徒たちが気がつきます。有名人だから上位なのか、遠い国のことだから下位なのか。そもそもそうなるのは、どうしてなんだろう、と考えることになります。

応用編としては、最初の作業が終わった後に「今日のニュース枠では時間がないので、3つだけ選びましょう」というやり方もできます。ニュース番組を作るようなイメージです。そうすると3つ以外の7つは伝えられない。つまり、起こったことでも伝えられないと、あたかも、その事実がなかったかのようになってしまうことに、みんなハッと気づきます。

ニュース記事についても、インタビューしたどの部分のコメントを使うか、最初にどんなエピソードを持ってくるか、どういう話で終わらせるのかによって、印象が全く変わって来ます。それが際立つようなワークショップもします。

何かを伝えるということは、構成や編集が不可欠になります。これはメディアに限らず、個人が誰かに何かを伝える時でも、無意識で同じようなことをしていますよね。メディアが伝える情報も、取捨選択の連続で現実を再構成した恣意的なものです。たとえ、特別に歪曲するような意図がなくても、制作者の思惑や価値判断が入り込まざるをえません。実際に作業してみることで、メディアリテラシーの根本的な考えが体感できます。

― アメリカの若者に比べ、日本の若者はソーシャルメディアで自分の意見を発信する人が少ないように感じますが、なぜだと思われますか。

日本とアメリカの違いは、文化的背景が大きいと思います。
アメリカでは、幼少のころから学校教育の場で、自分の意見をはっきりと言うように奨励されます。「移民の国」でもあり、バックグラウンドが異なる人や違った考えの人も多い中で、自分の意見を言うわけです。なので、小学校1年生ころから、自らの主張をサポートする客観的なエビデンスが大切であることを習い始めます。

正解のないテーマは多く、意見に至るまでのロジックが通っていれば、それぞれの生徒の意見はどんなに違っていても尊重されます。そうした日々の訓練の積み重ねがあるので、人前に出ても、友達と話していても、ソーシャルメディアでも、自分の意見を発信できる人が多くなっていると思います。ただ、どんな風に考えても良い社会でもあるので、「これは極端では?」と思うような意見にも、たくさん出くわします。

一方で、日本では「ひとつの正解」や「空気を読む」カルチャーの存在で、周りの人が自分の意見をどう考えるかを予測してから、言うべきかどうかを判断する人が多いと感じます。言いたいことをそのまま話すより、言わない方が合理的な場合は、控えた方が得策です。そうした日本の文化背景が、自分の意見をロジカルに語る機会を、幼少期から奪ってきている気がします。逆に、匿名性が担保できるソーシャルメディアなどでは、発言のハードルが低くなり、対面では言えないような、過剰な意見を発信する人が出てくるのかもしれません。

日米に住んでみて、文化や環境の違いが、いかに人間に影響を与えるかも実感します。
例えば、在米の日本の方を対象に講演にお招きいただくこともあります。米国育ちの子供たちは言うまでもなく、日本で生まれ育って、大人になってからアメリカ移住してきた大人でも、在米年数が長くなると、アメリカ的に自分の意見を物怖じせずにおっしゃいます。「日本人だから」ではなく、教育や文化の力の大きさを考えさせられる瞬間です。

「トランプ時代」のメディアの役割とは

― アメリカでは政治だけでなくメディアの「分断」も進んでいるように思います。ニューヨークタイムズなど主流とみなされてきたメディアが「リベラル」すぎるという批判も、よく耳にするようになりました。

アメリカ政治は民主党と共和党の勢力が、振り子のように揺れてきた歴史があります。
元々分断はありましたが、トランプ政権下では、その光と影がより濃厚になっていると感じます。

「今のメディアが、リベラルすぎるのではないか」というご質問については、そのように見えるかもしれませんが、現状に限って言えば、必ずしもそうとは言えないように思います。ニューヨークタイムズは、リベラルメディアを謳っているので、元々、社会的にそう認識されています。確かに、個別的に見ていけば、報道姿勢に疑問を感じるケースがあることも事実です。

とは言え、今のアメリカ社会は、トランプ大統領によって、虚偽が意図的に拡散され、人種差別が見逃されるなど、個々の基本的な人権や多様性を否定するような言動が大きな影響力を持ち、社会の分断がより鮮明になっています。

こうした風潮の中で、これらの発言等が事実なのか、倫理的に正しいかどうかなどを追求し続けていくことも、また、ニュースメディアの大事な役割だと思います。現在の「異常事態」に対抗していくには、メディアが逆の方向に、より強い力で引っ張っていく必要があるように思えます。

「綱引き」の中心がそもそも大きくズレてきているので、メディアに「政府のウォッチドック(番犬)」としての、権力チェック機能がある限り、逆向きに力を入れていかざるを得ない状況ではないでしょうか。勿論、ジャーナリズムの役割は、社や担い手の政治思想はどうあれ、フェアな形で、いかなる権力をも徹底的にチェックをすることなので、そこを超えることは論外ではありますが。

ソーシャルメディアが普及したことにより、メディアへの批判が増幅され、人々の目に触れる機会が増えたため、余計にリベラルなメディアが「偏っている」という印象が強まっている面もあると思います。

誰もが自由に発信可能になり、多様な情報が錯綜し、何が正しいのかが、ますますわかりにくい時代です。だから、メディアリテラシーが重要だ、という議論があります。私は、それを否定するつもりはありません。ただ、たとえ、どんなに社会が安定化し、フェイクニュースがなくなったとしても、メディアリテラシーが重要なことは不変だと思っています。

メディアを媒介した情報をもとに、世の中のありようを理解することが多い以上、たとえ情報が爆発的に増えていても、所詮、それらは社会事象のほんの一部をなぞり、その断片が伝えられているだけにすぎません。だからこそ、メディアリテラシーは、どんな時代や状況下にあっても、誰もが持つべき力だと考えています。