新型コロナウイルスのパンデミック下で急速に進んだデジタル社会化の「メディアリテラシー2.0」を示す待望のテキスト、それが坂本旬・山脇岳志編『メディアリテラシー 吟味思考(クリティカルシンキング)を育む』である。
それにしても、メディアリテラシーの重要性がジャーナリズムや教育現場で叫ばれてからもう何年になるだろうか。日本では1990年代にテレビの誇大CMや「やらせ」への批判として「メディア」リテラシーは語られ始めた。
佐藤 卓己
京都大学大学院教育学研究科教授、副研究科長
1960年広島市生まれ、89年京都大学大学院博士課程単位取得退学。東京大学新聞研究所助手、同志社大学文学部助教授、国際日本文化研究センター助教授などを経て、現職。京都大学理事補、京都大学総長首席学事補佐兼務。著書に、『現代メディア史』(岩波書店)、『「キング」の時代』(岩波書店、日本出版学会賞受賞、サントリー学芸賞受賞)、『流言のメディア史』(岩波新書)など多数。
◇「メディアリテラシー2.0」の教科書
そもそも「広告媒体」を意味したアメリカ語mediaがそのままカタカナで日本人一般に通用するようになったのは、消費社会化が進んだ1980年代である。1960年生まれの私が受験勉強で使った森一郎『試験にでる英単語』(青春出版1979年版)には単数形mediumは「名詞:媒介、形容詞:中位の」で立項されているが、複数形mediaは載っていない。戦後日本で「メディア」は長らく広告界のジャーゴン(業界用語)にとどまっており、マスコミとメディアは同義語と理解されてきた。そのため、マスコミ(広告媒体である新聞・雑誌・ラジオ・テレビ)以外のパーソナル・コミュニケーション(うわさ・手紙・電話・書物・レコード・ゲームなど)は長らくメディア研究の対象ではなかった。
もちろん、1990年代半ば以降のインターネット普及により、メディアの意味も「情報伝達媒体」全体を示すようになった。しかし、メディアリテラシーの意味が「メディアを批判的に読み解く力」と紹介された当時、多くの人はそれをマスコミ批判と解していた。だとすれば、今日インターネット上に氾濫する「マスゴミ」批判もメディアリテラシー教育の成果と言えなくもない。だからこそ、第9章「批判的思考とメディアリテラシー」で、楠見孝は「批判は非難ではない」とわざわざ前置きする必要があったのである。
批判的思考(クリティカルシンキング)は、「批判」という言葉から「相手を批判する思考」と誤解されて、攻撃的なイメージが持たれている。しかし、批判的思考において大切なことは、第一に、相手の発言に耳を傾け、証拠や論理、感情を的確に解釈すること、第二に、自分の考えに誤りや偏りがないかを振り返ることである。従って、相手の発言に耳を傾けずに攻撃することは批判的思考とは正反対の事柄である。(196ページ)
◇クリティカルシンキングは「吟味思考」
また、下村健一は第11章「『Should(べき論)』ではなく『How(方法論)』を教えよう」で若者に忌避されている「批判的」という訳語をやめることを求めている。
これは学校現場で子どもたちの反応を見ていて思うことです。「批判的」という日本語の語感は、英語の「クリティカル」と違ってネガティブなところがあります。子どもたちは、他人を批判したくないんです。仲の良い友達の言ったことを「批判的に受け取ろう」と教えても難しいものがあります。(242ページ)
同様に本書第四部の座談会「メディアリテラシー教育の現在地と未来」で広島県教育委員会教育長・平川理恵もこう述べている。
クリティカルシンキングを「批判的思考」と訳す人が多いのですが、「批判」と言うと日本人は嫌がるところがあるので、私は「多様・多面的思考」と呼んで、浸透を図りたいと思っています。(359ページ)
この意味で本書がクリティカルシンキングの旧訳ではなく、「吟味思考」という新しい訳語を提唱していることをまず評価したい。
しかしながら、メディアリテラシー教育の難題はさらにその先にあるのではないか。果たして教育は「吟味思考」のできる市民の比率をどのくらいまで高めることができるのだろうか。本書にはメディアリテラシー教育の先進国アメリカの専門家インタビューが掲載されている。ルネ・ホッブス「すべての子どもにメディアリテラシー教育を」(第8章)、菅谷明子「すべての情報は再構成されている」(第10章)、アラン・ミラー「NLP(ニュース・リテラシー・プロジェクト)を創設した理由と陰謀論の脅威」(第15章)である。いずれも意欲的な教育実践の指針を示している。しかし、それが実践されてきたアメリカ社会の現状を見る限り、そうした教育実践の効果について私は楽観的にはなれない。
◇「智民」的公共性のまぼろし
メディアリテラシー教育論が楽観的に見えるのは、それが新聞紙の黄金時代に活躍した民主主義思想家ジョン・デューイの思想的系譜に連なるためかもしれない。人間の自発性を重視するその教育論は、分かりやすく言えば新聞読者、あるいは教養市民の教育論である。だが、現在のメディアリテラシーの困難性は、そうした新聞読者モデルが通用するメディア環境ではなくなったことではなないだろうか。第1章「激変するメディア」で藤村厚夫はこう指摘している。
10代と50代とでは、接するメディア世界がまったく異なる状況に差し掛かっている。「メディア」と一言でいった場合、シニアと10代とではもはや異なるものを指していると理解すべきだ。(25ページ)
特にSNS普及の影響が大きいだろう。それは個人の情報発信力を飛躍的に高めるとともに、レコメンデーション(推奨)システムで情報をパーソナライズしている。50代教師(新聞読者)と10代生徒(ネットユーザー)の間にはメディア環境に対する大きな認識ギャップが存在する。それも学校現場でメディアリテラシー教育を困難にしてきた一因であろう。
そもそも50代教師が1990年代に接した初期インターネットは「篤志的なモチベーションに基づいたコンテンツ発信」が中心であり、その主要な担い手は一般大衆というより知的エリートだった。当時、ユルゲン・ハーバーマスの市民的公共性論をベースに電脳公共性を語ることが流行していたのもそのためだ。私が思い出すのは、公文俊平『ネティズンの時代』(NTT出版1996年)でnetwork citizenが「智民」と訳出されていたことだ。ウェブ空間が大衆に開放された今日でも「智民」はメディアリテラシー教育の達成目標だろうが、さすがに「ちみん」を口にする人はいない。フェイクニュースに飛びつき陰謀論を信じる「痴民」に文字変換される可能性も少なくない。
当然、本書にも「智民」の訳語は登場しないが、その理想は「サイバーシティズンシップ」や「デジタルシティズンシップ」として語られている(第6章「デジタルシティズンシップとメディアリテラシ―」)。
◇「情報の真偽」を見分ける力?
しかし、いかにサイバーシティズンが「吟味思考」をマスターしたところで、情報の真偽がそう簡単に見分けられると考えるべきではない。第3章「メディアリテラシーの本質とは何か」で坂本旬もこう書いている。
情報の真偽を見分ける能力としてメディアリテラシーが取り上げられることが多いが、一般にメディアリテラシー研究者はメディアリテラシーをそのような能力とは見なさないし、情報の真偽を見分けること自体についても懐疑的である。(79ページ)
だとすれば、フェイクニュースなどへの対応策として一般の人々に求めるべきは第三部「教育現場での実践」で提示される積極的(ポジティブ)なメディアリテラシーだけでよいのだろうか。むろん基礎的なディシプリンとして「ソ・ウ・カ・ナ=即断しない・うのみにしない・偏らない・中だけ見ない」や「だ・い・じ・か・な=誰・いつ・事実・関係・なぜ」のチェックは必要だ。しかし、それでも見分けがつかない「あいまい情報」に直面した際に、どう対応すべきかが問われるべきではないだろうか。
そのとき多くの教育者はデイビット・バッキンガムのように「より広いクリティカルシンキング」と「デジタル資本主義の土台となるプラットフォームへの規制」を求めるのかもしれない(80ページ)。しかし、「より広いクリティカルシンキング」が誰にでも可能だろうか。さらに、「プラットフォームへの規制」をAIに依存せずに行うことが可能だろうか。
ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』(ハヤカワ・ノンフェクション文庫2014年)の二重過程理論が本書でも繰り返し言及されている(206ページ、312ページ)。直観的思考(システム1)のバイアスを意識的に修正できる吟味思考(システム2)があることは確かだが、システム2の作動には認知的な努力が必要である。その努力を可能にする方策として、本書では過剰な情報に対する「デジタル・ダイエット」あるいは「インフォ・ダイエット」が紹介されている(313ページ)。しかし、ダイエット(食事制限)に成功する人の割合も限られているのではないだろうか。多くの人にとってダイエットの継続が不可能であればこそ、「ダイエット産業」は不滅なのだ。
結局、デジタル・ダイエットを徹底するには速い直観的思考(システム1)をAIに委ね、遅い吟味思考(システム2)を人間に残すことが現実的かもしれない。たとえば、ヘイト情報をダイエット(制限)対象としたとする。そうしたヘイト情報をウェブ上から削除する仕事は、誰にとっても決して気持ちのよい仕事ではない。その煩わしさから、ヘイト情報の削除をAIに委ねたいと考えるのは人間として自然なことだ。私自身を含め、多くの人は快適さを求めて煩わしい判断をAIに委ね、その動きに適応してゆくだろう。
AIの動きを予測して動くことは、機能的に見れば、AIに命令されているのと変わらない。AIが人間化するより、人間がAI化する可能性が高いのである。こうしてAI化した人間は速い直観的思考(システム1)のみならず、遅い吟味思考(システム2)もAIに委ねることになるだろう。あいまい情報がAI駆動でクレンジングされるという未来は十分に予想できる。
◇ネガティブ・リテラシー
こうした予測を私は『流言のメディア史』(岩波新書2019年)の終章で展開した。その結語部分を山脇岳志は第16章「虚実のあいまいさとメディアリテラシー」で肯定的に引用している。
マスメディアの責任をただ追求していればよかった安楽な「読み」の時代はすでに終わり、一人ひとりが情報発信の責任を引き受ける「読み書き」の時代となっている。こうした現代のメディア・リテラシーの本質とは、あいまい情報に耐える力である。この情報は間違っているかもしれないというあいまいな状況で思考を停止せず、それに耐えて最善を尽くすことは人間にしかできないことだからである。(286ページ)
この「耐える力」とは、情報の真偽を見分けることが容易ではない、いや、ほとんど不可能である「あいまい情報」への向き合い方である。そして、私たちに必要なのはAIが不得意とするあいまい情報に対するリテラシーである。その場合、むしろ消極的(ネガティブ)なメディアリテラシーが必要ではないかと私は考えている。それは情報をやり過ごし、不用意に発信しない力である。このネガティブ・リテラシー(消極的な読み書き能力)と同様な発想として、精神医学の領域に帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(朝日新聞出版2017年)がある。ネガティブ・ケイパビリティを帚木はこう定義している。
性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力。
この言葉は19世紀英国の詩人ジョン・キーツがシェークスピアの天才的創作の秘訣(ひけつ)にふれて最初に使用された。長らく忘れられていたこの概念は、20世紀後半に英国の精神分析学者ウィルフレッド・R・ビオンによって再発見された。
私たちはあいまい情報に直面した場合、このネガティブ・ケイパビリティを意識しない限り、早く「分かろう」「理解しよう」とするのが普通である。ケイパビリティ(能力)とはポジティブ(積極的)であるのが普通である。帚木はそれを「分かりたがる脳」と呼ぶ。その正常な脳を快適状態に保つために、私たちは何ごとであれマニュアルを用意する。その典型が医療現場のマニュアル第一主義である。なるほど、私が患者だとしても、病院では速やかに病名を指摘され、はっきり説明されることを望むだろう。マニュアルは患者の希望に応えるものだ。もしもマニュアルを使わず「よく分かりませんね。経過をみましょう」と言われて、安心できる患者は少ないはずだ。
本書の実践編で紹介されている吟味思考リスト「ソ・ウ・カ・ナ」や「だ・い・じ・か・な」もマニュアルとして使用される可能性が高い。ニュースのあいまいさに耐えることより、まず識別して安心することを私たちの脳は求めている。時間的にも精神的にも余裕のある人でなければ、より広くより深く思考するために判断を引き延ばすことは難しい。
しかし、精神医療の現場であれば、病因を不明のままにしておく方が患者にとって望ましい場合もある。その対処に必要なものとして帚木は「日薬」と「目薬」を挙げている。日薬とは何もしなくても日々の時間経過が解決してくれる自然治癒力であり、目薬とは不安な患者の様子を主治医が「しかと見ている」まなざしを意味する。この日薬と目薬によるネガティブ・ケイパビリティの臨床例から私たちが学ぶことは少なくない。大学教育に携わる者として帚木の言葉は心に染みる。
問題解決があまりに強調されると、まず問題設定のときに、問題そのものを平易化してしまう傾向が生まれます。単純な問題なら解決も早いからです。
そうであれば、メディアリテラシー教育でも問題解決を強調すべきではない。ON/OFF、白/黒のデジタル思考への抵抗力を高めること、あいまい情報の中で事態に耐える人間力こそが、AI時代に求められるリテラシーだからである。
あいまい情報をやり過ごし、不用意に発信しない力、つまりネガティブ・リテラシーのクリティカルシンキングであれば、それは「耐性思考」とでも呼ぶべきだろうか。
(時事ドットコムより転載)