メディアリテラシー教育とは何か
――水越伸が語る断片化時代の処方箋――(上)

2026.07.13
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水越伸氏は、メディアを情報技術の側からだけではなく、人間や社会の側からとらえる「ソシオ・メディア論」を提唱したことで知られる。研究者、大学生、市民団体、教師やデザイナー、アーティスト、メディア関係者らとともに「メルプロジェクト」「メルプラッツ」を中心になって展開するなど、メディアリテラシーの研究のみならず実践にも取り組んできた。新聞やテレビがメディアの主役だった時代から、SNSやAIによって情報環境が左右される時代へと大きな変化が起きている中、メディアリテラシーはどうあるべきなのか。水越氏のインタビューを2回にわたって掲載する。(聞き手:山脇岳志、長澤江美)

水越 伸(みずこし・しん)
1963年生まれ。関西大学社会学部メディア専攻・教授。
1986年筑波大学比較文化学類卒業。在学中にデザインオフィスCOATOの立ち上げに参画し、生産デザインと消費社会の文化人類学的調査に従事。東京大学大学院社会学研究科博士課程中退。1989年、東京大学新聞研究所助手、助教授を経て、2000年より情報学環准教授、2009年教授。2022年より現職。大学と社会を架橋して「大人のリテラシー」に取り組む財団法人INSTeM理事、バイリンガルの独立雑誌『5:Designing Media Ecology』編集長。

 

コンテンツとプラットフォームを切り分ける

――メディアリテラシーは論者によってとらえ方が大きく異なります。まず大枠として、水越さんはメディアリテラシーをどのようにとらえていますか?

メディアリテラシーとは、さしあたり「メディアを介したコミュニケーションを意識的にとらえ、批判的に吟味し、自律的に展開する営み、およびそれを支える術や素養」だといえます。

英語には、「メディア・エデュケーション」と「メディアリテラシー」という2つの言葉があります。イギリスでは「メディア・エデュケーション」が使われていて、カナダなどでは文字の読み書きの比喩的な意味合いの「メディアリテラシー」がよく用いられています。前者が教育活動を意味し、後者が人々とメディアの関わり方の状態を指すなどの学術的な違いはありますが、一般的には似たような言葉だととらえておいていいと思います。

私は現在、メディアリテラシーの立体モデルというのを提唱しています。私たちがメディアリテラシーと呼んでいる多くは、メディアという器、あるいはプラットフォームに乗ったメッセージ、コンテンツのリテラシーです。それとは別に、メディアそのもの、プラットフォームのリテラシーも必要になってくる。コンテンツとプラットフォームのリテラシー。この2つを切り分けて、立体的に位置づけていこうというわけです。

 

図1.メディアリテラシーの立体モデル(Shin Mizukoshi, 2025)

 

プラットフォームのリテラシーとはどういうものか。たとえば、森鴎外に『高瀬舟』という美しい短編がありますが、それを新潮文庫で読むのか、復刻版の大きな単行本で読むのか、Kindleで読むのか、青空文庫で読むのかによって、読書経験が変わってきます。小説を載せる器、プラットフォームが違うと、小説というコンテンツの受け取り方も変わってくるわけです。あらゆるものがスマートフォン上のアプリに集約されつつある現在、メディアのコンテンツだけでなく、プラットフォームの特性をリテラシー教育の対象としてとらえていく必要があります。

メディアリテラシーを3つの層でとらえる

――水越さんは「メディア遊び」が重要だともおっしゃっていますね。これはメディアリテラシーとどのような関係があるのですか。

私は、メディアリテラシーという言葉にすべてを背負わせるのではなく、メディアと私たちの関係性を指す概念を分散させる必要があると思い、「メディア遊び」「メディアリテラシー」「メディア実践」という3層で位置づけたほうがいいと考えてきました。

 

図2.メディア遊び・メディアリテラシー・メディア実践(水越伸, 2005)

 

「メディアリテラシー」とはある種の約束ごとであり、メディアに関する文法だといえます。たとえば、旅行でアメリカのホテルに泊まったとき、テレビのバラエティ番組を見ても何がおもしろいのかわからないために笑えないという経験をしたことがある人は多いのではないでしょうか。笑えないのは、その番組が前提としているアメリカに住む人ならわかっているエピソードの意味や、会話の間の取り方などの約束ごとがわからないからです。メディアリテラシー教育のポイントは、その文法を吟味し、学ぶことにあります。

でも、そうしたメディアの文法は、時としてパターン化して凝り固まってしまい、制作者も視聴者もそれによって縛り上げられてしまうことがある。吉本のお笑いや旧ジャニーズのアイドルのあり方は、その最たるものではないでしょうか。そんな文法をガラガラポンして新たに組み直すような営み、それが「メディア遊び」です。「メディア遊び」は、若者の流行やアートなど、さまざまな領域で偶発的に生じることが多いといえます。

「メディア実践」とは、メディアリテラシーを身につけた人々がその知見を社会に応用・投入していくことを指します。市民運動、アート・アクティビズム、地域振興など、さまざまな領域でメディアリテラシーが「実践」されていくわけです。

台湾のメディアリテラシー研究を推進した呉翠珍(ソフィア・ウー:国立政治大学)さんという方がいらっしゃいました。早逝されましたが、私の大切な研究仲間でした。その彼女が、台湾の市民運動がメディアリテラシーを踏まえたメディア実践だと語ってくれたことがあります。

台湾には、中国からの独立を志向するか、中国と仲良くするかという大きな政治的対立があります。そこでは「メディアを正しく読み解く」という営みが、きわめて政治的なイシューになる。呉さんは、その状況を回避しつつ、台湾におけるメディアリテラシーの普及と定着に尽力しました。

呉さんは、「ひまわり学生運動(中国との「両岸サービス貿易協定」の強行採決に反対し、立法院を占拠した民主化運動)」のことを、メディアリテラシーを学んだ青少年がそのことを踏まえて行った「メディア実践」だったと位置づけていたのです。

もちろん教育の成果と市民運動の関係は丁寧に検証していく必要があるでしょうし、台湾のみならず香港、日本などでも市民運動や学生運動が盛んだった2010年代と現在とでは、ずいぶんと政治状況が変わったことは意識しておかなければなりません。

ただ、近年のさまざまなメディアがらみの問題で、研究者も評論家も、メディアリテラシーがすべての解決策であるかのように言い過ぎるきらいがある。メディアリテラシーは特効薬ではありません。「メディア遊び」と「メディア実践」の間に位置づけることで、さまざまなメディア現象をよりよくとらえられるようになる。メディアリテラシーでできること、メディア遊びやメディア実践としてとらえるべきことを区別でき、具体的な教育活動に落とし込みやすくなると思います。

民主主義の大言壮語と学校教育のミクロな関心

――水越さんは、イギリスのメディア教育の第一人者であるデビッド・バッキンガムの著書『メディア教育宣言:デジタル社会をどう生きるか』(世界思想社)を監訳し、解説を書かれています。その中で「バッキンガムは怒っている」という見出しを立てられていますね。

この訳書の原著が出版されたのは2019年ですが、当時、バッキンガムさんはイギリスのメディア教育の状況について、イライラしていたと思います。出版直後にロンドンでお会いした時、「イギリスのメディア教育は外からは立派に見えるかもしれないけど、政治家は政争の具に使うし、役所の方針は一貫していないし、学校教師は教室内のミクロなことを気にするだけで、問題だらけだ」と言っていました。

 

図3.デビッド・バッキンガム(2023/2019)『メディア教育宣言:デジタル社会をどう生きるか』

 

日本でも学校の先生方や学校教育に照準した研究者は、どうしてもミクロにならざるを得ないんです。どのように授業を組み立てるか、成績評価をどうするか、どんな教材を用いるか。そのようなことを精密に考えていかないと成り立たない。学校には独特の文化があり、そこに1960年代にはテレビ、80年代にはコンピュータ、90年代にはインターネット、さらにマルチメディア、SNS、AIと、次々とメディアが到来する。それらをどのようにカリキュラムや指導要領に組み込んでいくかということに集中せざるを得ない。先の「メディア実践」など政治色が強いことはもちろん、メディアリテラシーを身につけた生徒たちが地域社会と連携するなどということも射程に入ってこない。無理もないと思います。

民主主義的な社会のためには、批判的な意識を持った市民が育つべきであり、人々にとってメディアとの関わり方を学ぶことが必須だという考え方は、おおむね1980年代に出てきました。しかし、そうした民主主義社会の重要性を大言壮語する知識人やジャーナリストと、学校現場の教師たちのミクロな観点はなかなか結びつきにくい。政治的なことがらはもちろん、メディアが生み出すポピュラー文化現象さえも教室に取り入れることがむずかしい日本では、そのつながりが脆弱だと思います。

――学校教育の中で、メディアリテラシーが民主主義と接続する回路はありえますか。

1つ考えられるのは、部活です。放送部とか新聞部とか。がんばっているところは地域に出ていきます。学校の新聞が地域で読まれている場合もあったりする。教科教育という学校の中核ではなく、部活や文化祭、スポーツ祭は、社会や民主主義と関わる場になりうるのではないでしょうか。

大人のリテラシーは「ほぼない」

――学校以外、つまり大人のメディアリテラシーについてはいかがですか。

残念ながら、大人がメディアリテラシーを学ぶ機会や場所は、ほぼないといってよいです。生涯学習を担当する文科省の審議会に関わっている研究者から聞きましたが、「全然変わらない、厳しい、お金もまったくないし、何もできていない」と。学校教育にはいろいろな実績があるが、社会教育のほうは全然できていない。少子高齢化が進む日本では、とくに大人のためのメディアリテラシーを推進していく必要があると思います。

――アメリカでもメディアリテラシー教育は行われてきたはずですが、民主主義社会が大きく分断されており、効果がないのではないかという批判もあります。

そこは軽々に結論めいたことをいうべきではないと思います。アメリカの哲学者、教育学者であったジョン・デューイの思想というのは生きている。デューイは、人間は神様によって先天的な資質を持つ特権的な存在として作られたわけではない。人間は環境のなかにおかれて、周囲にいる人や動物やものや空間とさまざまな形でインタラクションしながら、絶えず環境に適応しつつ、自我や精神を育んでいく存在だと考えました。私たちを取りまく環境の中で、自然環境や社会インフラ以上に存在感を増しているのがメディア環境なわけです。

学習環境デザインに取り組む畏友、山内祐平さん(東京大学)は、「学ぶということは人が変化するということです。学習とは水越さんたちの領域でいえばコミュニケーションなんですよ」と言う。教育がもたらす可能性を、山内さんもそうでしょうが、私も疑ったことはありません。今はアメリカのみならず世界各地が大変な状態ですが、適切な学習環境をデザインすれば、必ずその効果が出ると思っています。メディアリテラシー教育が役に立っていないでしょうと言われたら、じゃあ国語や数学はどうなんでしょうか。教育に意味がない、などということはあり得ないと思います。

――ただ、バッキンガム自身も、メディアリテラシーだけでは解決できない問題があると述べていますね。

だからこそ、「メディア遊び」「メディアリテラシー」「メディア実践」の三層でとらえるべきだと思うのです。バッキンガムさんは、国のマクロなメディア政策や産業はメディアリテラシーだけでは解決できないと言っています。別にメディアリテラシーを貶めているわけではなく、メディア政策であればメディア法や情報法が、産業は経済学や経営学が対応するわけです。それらの中の一つが、メディアリテラシーなのです。

「フェイクニュース時代だからメディアリテラシー」という発想の限界

――水越さんはバッキンガムの『メディア教育宣言』の解説の中で、「フェイクニュースやヘイトスピーチの時代にメディアリテラシーが再び注目されているなどといって嬉々」としていてはダメだという趣旨のことを書かれていました。もう少し説明していただけますか。

「メディアリテラシー」って、メディアで問題が起こるたびに召喚されて出てくるわけですよ。1990年代はテレビのヤラセやスキャンダルに対して、2010年代後半はSNS上のフェイクニュースやヘイトスピーチに対して。問題が生じるたびに、特効薬のようにしてこの言葉が持ち出される。でも事態が落ち着くとすぐに忘れ去られていく。問題が起こるたびに新奇なもののように取り上げられ、すぐに忘れられていくようでは、研究としても教育実践としても浅いですよね。

以前、長野県の高校生にこう尋ねられたことがあるんです。「テレビのメディアリテラシーがあって、新聞のメディアリテラシーがあって、インターネットのメディアリテラシーがある。メディアごとにメディアリテラシーがあるんですか?」と。とても鋭い質問でした。これに答えるためには、さまざまなメディアを一般的に扱える理論が必要となる。メディア理論を前提として、たとえばですがメディアリテラシーを、時代を超えた基本的な次元と、特定のメディアに対応した応用的な次元に区分けしてとらえなければ答えることはできません。

インターネット時代のメディアリテラシー、SNS時代のメディアリテラシー、AI時代のメディアリテラシーなどというキャッチフレーズを繰り返すだけでは、メディアリテラシーを本当に社会に定着させることはむずかしいと思います。

「送り手の意図を読み解く」ことは可能か

――メディアリテラシーの定義を「送り手の意図を読み解くこと」としている人がいますが、水越さんはどう思われますか。最近も私自身の本の一部が入試問題や模試に出題されましたが、その試験を解こうとすると、自分でも正解が分からない(笑)。4つの選択肢が全部違うな、と思ったことがありました。つまり、入試問題を作っている人は私の意図を誤解しているわけです。情報の送り手の意図を読み解くことは、相当むずかしいのではないかと思います。

おっしゃる通りですね。イギリスのメディア教育やカナダのメディアリテラシー教育は、メディアのコンテンツやメッセージには特定の価値観やイデオロギーが盛り込まれていること、あらゆるメディアは商業主義的であることを基本点として出発しています。この考え方は、第二次世界大戦における戦争プロパガンダや、そのプロパガンダ技術を応用した戦後の大衆消費社会におけるさまざまな商品広告に対抗できる青少年を育てることを下支えしました。

21世紀も四半世紀が過ぎ、世界各地で勃発する戦争や侵略をめぐる国威発揚のプロパガンダや、検索エンジンやSNSが私たちの個人情報を大量に集め、切り刻んで広告主に販売するという、徹底した商業主義をみると、この考え方にはいまだに有効性があります。

ところで、私がメディアリテラシーに本格的に取り組むことになったのは、NHKの労働組合である日本放送労働組合(以下、日放労)のメディアリテラシー研究会への参加がきっかけでした。その後、日本民間放送連盟、NTTドコモ、KDDIなどのメディア産業と共同研究も展開しました。その過程で私が痛感したことは、送り手の意図というのはそれほど明確なものでも、単純なものでもないということでした。

たとえば民放局で働く多くの放送人は、毎日真面目に番組を作り視聴者に送り届けようとしている。営業担当者は、スポンサーを見つけて番組を成り立たせ、局の財源を確保するために努力している。民放局は広告収入にせよ、サブスクにせよ、なんらかの収入を商業的に得なければ存在できない。

民放の商業主義を批判することはたやすいですが、地方の小さな放送局が県内で展開する焼き肉チェーンの広告を出すことや、大手スポンサーがある時代の若者文化を反映したようなCMを展開することまで、すべてを商業主義の一言で切り捨てることに、私は危うさを感じます。それは浅薄なメディア批判であり、メディアのためにも、私たちのためにもならないのではないでしょうか。

テレビの送り手がドラマを作って放送したり、新聞が何かのテーマについて連載記事を掲載したりする際、さまざまな立場の送り手が複合的に絡み合って最終的なコンテンツ、あるいはメッセージが社会に広まっていく。放送局や新聞社には伝統的な作法やスタイルがあり、他社との競争があり、公共的な使命感があり、財源確保のための策謀があり、メディア環境のデジタル化が進むなど、送り手の意図を取り巻く状況は非常に複雑です。

送り手に意図があるという言い方はわかりやすい。戦争プロパガンダや戦後の売らんかなという時代状況には有効なフレーズだったと思います。しかし現在、このフレーズは陰謀論の温床になってはいないか。すなわちマスメディアはみな偏向しており、背後に巨大な組織があって操られている、などといった妄想です。メディアリテラシーのためのフレーズが、メディアリテラシーを台無しにしかねない。注意が必要だと思います。

 

メディアリテラシー教育とは何か――水越伸が語る断片化時代の処方箋――(下)はこちらです。

(インタビューは、2026年2月10日、3月26日の2回にわたって行いました)