メディアリテラシー教育はどこに向かうのか~坂本旬・法政大学教授(後篇)

2020.12.21
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メディアリテラシーの国際的な潮流にも詳しい法政大学の坂本旬教授のインタビュー。前篇に続き、後篇では、各国におけるメディアリテラシー教育の取り組みや、今後、リテラシー教育はどこに向かっていくべきなのか、などについて聞きました。(構成:宮崎洋子, 石井謙一郎)

坂本旬・法政大学教授
1959年大阪府生まれ。東京都立大学大学院教育学専攻博士課程単位取得満期退学。編集者、著述業を経て、1996年より法政大学教員。現在はキャリアデザイン学部教授。ユネスコのメディア情報リテラシー・プログラムの普及をめざすアジア太平洋メディア情報リテラシー教育センターおよび福島ESDコンソーシアム代表。基礎教育保障学会理事。著書に「メディア情報教育学」(法政大学出版局)など。

坂本旬教授インタビュー(前篇)はこちら

メディアリテラシーの発展段階

リテラシーを単なる読み書き能力と理解していては、メディアリテラシーを教えることはできません。リテラシーの概念は、以下の4つの段階で発展してきました。

第1段階が標準スキルとしてのリテラシー。つまり読み書き計算のリテラシーであり、長い間こうした理解がされていました。
2番目がファンクショナル(機能的)・リテラシーで、思考能力や論理的能力など、読み書き計算の力を他の能力へ展開することです。この見方は1970年代に入って登場しました。
3番目は、エンパワーメント(力をもたらすこと)としてのリテラシーです。別の言い方をすると、批判的リテラシーです。新聞記事についてディスカッションしたり、自分たちの生活に置き換えて考えることなどを含みます。パウロ・フレイレの実践や理論の影響を強く受けた考え方で、1970年代の後半に登場しました。
4番目に、批判的リテラシーが進化した多元的リテラシーがあります。メディア・リテラシーや情報リテラシー、デジタルリテラシー、ニュースリテラシーなどを統合した、ユネスコのメディア情報リテラシーもその一つです。このような考え方は2000年代に入ってから現れ、現在ではユネスコのリテラシーの基本原理となっています。もちろん、第1段階から第3段階のリテラシーの考え方を土台にしており、それらを含んでいます。

「media」という単語を辞書で引くと、2つの意味が出てきます。ひとつは「medium」の複数形で、一般に「媒体」と呼ぶものです。テレビ、パソコン、スマホ、あるいは鉛筆や伝書鳩だってメディアです。好きな人に赤いバラを贈れば、「愛しています」というメッセージを伝えるためのメディアになります。
もうひとつの「the media」という言い方は、マスメディアを指します。日本語だとtheが付かないので混同してしまいがちです。メディアリテラシーはどちらも含みますが、主として後者に関わる概念です。
ちなみに、メッセージとは、情報を運ぶ手段です。宛名の書かれた手紙がメッセージならば、その手紙に書かれた内容が情報です。私たちはメッセージを通して、情報をやり取りしているのです。メッセージには宛先がありますが、情報にはありません。また、コンテンツという用語もメッセージと同じように使われています。

NHKが学校向けに作っている解説動画を見ると、メディアリテラシーとは①メディアを「読み解く力」、②メディアを「活用する力」、③メディアを通じて「コミュニケーションする力」だとあります。
①は(国際的なメディアリテラシーの概念に)合致していますが、②にはデジタルカメラを活用して写真を撮りましょうといった話にもなってしまうし、③になるとスマホのSNSやLINEの使い方が含まれます。
これまでの日本でのメディアリテラシーの考え方は、情報活用能力という用語と結び付けられて語られることが多いため、情報リテラシーと混同されやすいと思われます。「メッセージ」ではなく「情報」を賢く読み解くとか、情報を読解するという言い方をしていました。それでは、情報リテラシーなのかメディアリテラシーなのか、判然としません。

このように日本でメディアリテラシーを語るとき、欧米で議論を重ねて形成された概念からズレてしまうことがよくあります。日本は日本的な考え方でいいんだという意見もあり得るでしょう。しかし、このズレを意識しておくことは欠かせません。たとえば現在のフェイクニュースを巡る議論は、欧米のメディアリテラシーやニュース・リテラシー、情報リテラシーの定義の延長線上にあります。世界で進行している問題を正しく理解するためには、概念についての基本的な共通認識をもっておかなければいけません。

メッセージの「意味」を読み解く

アメリカのメディア・リテラシー・センター(Center for Media Literacy)によると、メディアリテラシーは、5つの基本コンセプトによって成り立っています。

①【構成】すべてのメディア・メッセージは「構成」されている。
テレビや新聞だけでなく、個人がソーシャルメディアで発するメッセージも同じだと知ることが必要です。

②【言語】メディア・メッセージは、創造的言語とその原理を用いて作られている。
たとえば映像のコマーシャルを取り上げ、どんな音楽が乗っていたか、どんなカメラワークだったか、そこにどんな意味があるかを考えます。

③【多様性】メディア・メッセージは、多様な人々によって多様に感じ取られる。
社会的な文脈や立場によって、いろいろな読み解きがあり得ると知ることです。たとえば「太平洋戦争開戦記念日」のニュースを、戦没者の遺族はどう受け止め、アメリカ人はどう受け取るか。いろいろな立場の人の見方や考え方を想像して、議論することが大切です。読み解きとは主体的な営みであり、そのことの意味を考えるわけです。

④【価値観】メディアは価値観と視点を有している。
ニュースには、それを報じるテレビ局や新聞社の価値観が反映されます。ソーシャルメディアにおける個人の発信にも、同じことが言えます。

⑤【力】ほとんどのメディア・メッセージは、利益を得るため、および/または権力を得るために作られている。
メディア企業は公益性をもつ一方、利潤も目的にしています。あるいは意図的にフェイクニュースを流すことで、お金を稼いだり影響力を得ようとする人たちもいます。メッセージの背景にある目的について考えなさい、ということです。

「意図」ではなく「意味」を読み解くことがポイントです。「意図」といえば個人のものですが、メディアから流れてくるメッセージはそれほど単純ではありません。さまざまなメッセージを読み解くと言ったほうが、はるかに豊かな授業ができます。ですから意図という言葉を使わず、メッセージの意味を読み解きなさいという言い方をします。

たとえばコマーシャルを作るとき、企業は商品を売りたいから、商品価値のアピールを意図して作ります。しかし、実際に制作を担当する監督は独自のメッセージを表現している可能性があって、それは企業の意図を超えた場所に隠れています。そういう読み解きを子どもたちにさせるのは、非常に面白く知的な体験になります。
こう言うと、明確な到達目標がなくては授業に使えないのではないか、と反論されます。そこは評価についての考え方ですが、アメリカのメディアリテラシー研究者の中には、到達目標を設けるべきではないという人もいます。「そんなことをすれば、メディアリテラシー教育ではなくなる。探究が大事なのだ」というわけです。

イギリスの研究者レン・マスターマンはもっとはっきりと、「カリキュラムには当然目標があるが、国の作った目標とは違うメッセージを授業に入れなさい」と言っています。「決まったカリキュラム通りやっているように見えて、実は違うメッセージを子どもたちへ送る授業をやりなさい」と言うのです。このような議論はなかなか日本では受け入れられませんが、しかし私たちは子どもたちにさまざまなメディアに隠されたメッセージの読み解き方を教える必要があります。メディアリテラシーはクリティカルであることが基本ですから、文科省の指導要領通りに教えるだけでは不足なのです。

転換期はiPhoneの登場

私が大学で教職に就いたのは1996年で、担当は情報教育論と教育方法論でした。98年にメディア総合研究所から、Vチップ問題について、メディア・リテラシーの観点からシンポジストとしての参加を頼まれました。Vチップとは、過激な暴力表現や性表現のある番組を映らなくするために、テレビに付ける装置です。すでにアメリカなどでは、メーカーよる設置が義務付けられていました。日本では結局、誰が番組の格付けをするのか、青少年が番組を視聴する権利を奪うことになるのではないか、などの議論が出て、導入は見送られます。このことが、私がメディアリテラシーを研究するきっかけになりました。

メディアリテラシーの重要性に本当に気づいたのは、2001年に発生したアメリカ同時多発テロです。翌年4月から1年間ニューヨークシティカレッジが実施するカルチャークエストプロジェクトに参加するため、ちょうど現地に滞在していたのです。ショッキングな出来事だらけでした。崩れてしまったワールドトレードセンターには近づけないし、ヘリコプターが24時間ずっと上空を飛んで警戒していました。道を走る車には星条旗がはためき、「戦争反対」とは言えない空気でした。アメリカという民主主義の先進国でも、いざ戦争を始めようとなると、自由にものが言えなくなることを知りました。そのときふと、アメリカはメディアリテラシー教育をどのようにしているんだろうと思ったのです。

2007年から2008年に、メディアリテラシーの転換期がありました。iPhoneが登場した時期です。マスメディア中心だったメディアリテラシーが、ソーシャルメディアの出現によって、考え方や原理の作り直しを余儀なくされたのです。デジタル・シティズンシップという考え方が登場したのも、2007年でした。トランプ氏が当選した2016年のアメリカ大統領選挙でフェイクニュースが大きな問題になってから、さらに新しいフェーズに入りました。

既存のメディアは印刷物や放送からオンラインへの転換を迫られ、Facebookと競争しなければいけない事態になっています。特に日本の場合、まとめサイトや個人の作ったニュースサイトがたくさんあり、若い人たちはそちらを読んでいるという現状を、まず理解しなければいけません。そうなると、目を惹きやすい極端な見出しのほうが、読まれやすくなります。新聞社の同じ記事でも、紙の新聞に比べてオンラインに配信された見出しのほうが、過激な表現が目立ちます。現に地方新聞社で働いている私の友人は、「自分のニュースに極端な見出しを付けたら、ヒット数が増えた」と自慢していました。

そういう競争原理が働いてしまうと、引き換えに信頼性が落ちていきます。いま世界中の新聞社が、フェイクニュースと競争して負けています。ニュースが読まれないから収益は下がり、大変な問題になっています。新聞社が本当に信頼性を獲得したいと思うのであれば、一番大事なのは若者たちのニュースリテラシーを高めることです。アメリカでは、ジャーナリスト出身者が創設したNPOであるニュース・リテラシー・プロジェクト(NLP)が学校教育と連携しています。以前は学校へ直接出向いて啓発の授業をやっていたのですが、それではもう間に合わないということで、各州で教員を対象にした研修を実施しています。

日本でもそうした取り組みを行なわなければ、既存のメディアは信頼されないし、読者や視聴者を育てることができません。ニュースを消費する側と作る側が協働しなければ、いいニュースはできないのです。本当は誰もが信頼できるニュースを欲しているし、必要としています。

「アルゴリズム・リテラシー」を学ぶ必要

私は2020年3月に発表した『ソーシャル・メディア時代のメディア・リテラシー教育の新たな展開』という論文で、アルゴリズム・リテラシーについて書きました。メッセージだけではなく、プラットフォームの仕組み自体がアルゴリズムでできているという内容です。FacebookでもGoogleでも、つい買いたくなるような商品の広告が、次々と掲示されます。人間が作ったアルゴリズムによって、以前に利用したネット通販の履歴や閲覧したデータを元に、好みそうな商品を表示して買わせようとしているのです。個人のプライバシーが勝手に利用されて、商売に使われているわけです。AIも人間がプログラムしたものですから、データセットが偏向していれば、結果も偏向してしまいます。しかしデータセットの偏向がなかなか止められないことが、AIの世界で問題になっています。

そこで登場したのが、アルゴリズム・リテラシーという考え方です。すべてのプログラムは、人間の作ったアルゴリズムで動いている。ではアルゴリズムは、どういう原理で動いているのか。どういう構造になっているのか。そこに目を向けて学ぶのがアルゴリズム・リテラシーで、非常に新しい考え方です。

2020年12月に韓国で、メディアリテラシーの国際会議がありました。そこで韓国の研究者グループが、アルゴリズム・リテラシーのプロジェクトについて発表しました。ベルギーの研究者との共同研究ですが、韓国のメディアリテラシー教育研究は日本より発展していると感じました。韓国では、メディア教育活性化法の制定も進んでいます。法案の趣旨を読むと、メディアリテラシー教育は「メディアとメディアを介して配信される情報とコンテンツへのアクセス、批判的理解、創造的活動、民主的コミュニケーション能力の向上と国民の市民意識を涵養し、メディアを通じた社会参加を有効にするためのすべての形態の教育として定義される」とあります。

アメリカでも、メディアリテラシー教育法案の制定運動が行なわれています。また香港の現状を見れば、デジタル・デバイドや分断の問題、表現の自由、自己表現などを含むデジタル・シティズンシップが、我々の社会にとってどれだけ大切な概念であるかがわかります。新型コロナの感染拡大によるオンライン教育の急速な広がりは、メディアリテラシー教育に大きな影響を与えました。子どもたちがフェイクニュースや偽情報への対処法を身に付ける必要性も、高まるばかりです。そんな中で、日本の教育関係者の関心の所在が学校の中にとどまっていることこそ、本当の危機ではないでしょうか。