デジタル時代における表現の自由――ファクトチェックの実践と理論の観点から(下)

2023.09.11
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曽我部真裕(そがべ・まさひろ)
京都大学大学院法学研究科教授
1974年生まれ。京都大学法学部、同大学院法学研究科修士課程、博士課程(中退)、司法修習生(第54期)、京都大学大学院法学研究科講師、准教授を経て2013年から現職。 放送倫理・番組向上機構(BPO)放送人権委員会委員長、一般社団法人ソーシャルメディア利用環境整備機構(SMAJ)共同代表理事、情報法制研究所(JILIS)副理事長、日本ファクトチェックセンター(JFC)運営委員長など。著編著に『情報法概説(第2版)』(共著、弘文堂)、『憲法Ⅰ 総論・統治(第2版)』『憲法Ⅱ人権(第2版)』(共著、日本評論社)など。

ファクトチェックの憲法的基礎としての思想の自由市場論

憲法21条では表現の自由が保障されており、憲法学では、この表現の自由は数ある人権の中でも手厚く保障されるべきものだと考えられている。こうした理論の基礎にある考え方の一つが、「思想の自由市場」論である。自由な表現を認めることによって多様な情報が流通し、誤った事実や考え方は反論や批判によって淘汰され、真実が残るなどとする考え方である。そこからすれば、実際には無謬ではない国家が自らの善悪や真偽の判断を表現規制によって強制すべきではないことになる。

ところで、このような思想の自由市場論には明示または黙示の前提がある。本稿の議論展開を先取りして言えば、今日、こうした前提を問い直さざるを得なくなった結果、思想の自由市場論に無条件に依拠するわけには行かなくなっているのではないかと考えられる。

思想の自由市場論の前提とは、①市場に流通する情報量は多ければ多いほうがよい、②そのためには国家の介入は少ないほどよい、③情報の受け手は自律性を有し、情報の選別・判断能力を備えている、などであろう。

③について補足しておくと、情報空間に登場する主張とそれに対する反論・批判とのいずれが妥当かを判断するのは表現の受け手であることが想定されており、そこには、受け手の情報選別・判断能力に対する信頼が存在する。その反面、国家が情報の真偽や信頼性を判断して規制することは、極めて例外的な場合を除き、許されない。

思想の自由市場論は、20世紀の初頭のアメリカで主張され始めたものであるが、その後、アメリカのみならず戦後日本でも、表現の自由の重要性を支える理論の一つとして重視されてきた。もっとも、現実には、テレビを中心としてマスメディアの存在が大きくなり、マスメディアによる情報空間の独占・寡占の弊害が主張され、思想の自由市場論の観点から批判されるようになった。こうした状況への対応として、国民の「知る権利」が主張され、また、放送制度、とりわけNHKの設置をはじめとする放送制度を通じた多様な情報の提供が図られてきた。

思想の自由市場論の前提変容と、ファクトチェックの限界

その後、日本では2010年前後から、現在でも広く利用されているようなソーシャルメディアが普及してきた。それ以前は、一般の個人には有効な表現手段があまりなく、マスメディアの独占・寡占が問題とされてきたのに対し、ソーシャルメディアによって、誰でも簡単に、全国あるいは世界中に向かって発信することができるようになった。思想の自由市場の理想に大きく接近したようにも見える。

しかし、このような状況は、個人の情報処理能力を遥かに超える量の情報が、未整理の形で流通するようになったことをも意味する。例えば、コロナ危機に即して言えば、この感染症に関する真偽不明の情報が多数流通しており、しかも、それは医師や、専門家を名乗る者によっても発信されていた。こうした場合に、素人である個人が多くの情報を収集・分析して、何が信頼に値するものであるかを判断することは極めて困難である。

かつてであれば、マスメディアが曲がりなりにも信頼に値する専門家を選別して一定の質の担保された情報を提供していたところ、こうしたフィルターが弱体化し、序列づけされずにフラットに提示される多くの情報の信頼性を個人が判断しなければならなくなった。そこに混乱が生まれる。

思想の自由市場においてすべての情報は吟味・淘汰されうるにしても、ある時点をとれば、暫定的ではあっても、真実に近い情報やオルタナティブな情報といった位置づけが存在することが通常である。従来であれば、例えば、新聞や放送で取り上げられる情報は確度が高く、また、公共性の高いものである一方で、週刊誌では不確かなものもありうるといった形で情報に関する情報が可視化されていた。ソーシャルメディア上では、このような可視化が不十分となりがちであり、それに応じて、情報空間が不安定化しやすい状態である。

これに対処しようと思えば、ひとまず考えられるのは国家の政策的介入によるマスメディアの役割の再強化であろう。実際、ソーシャルメディアの隆盛に反比例するように、産業としてのマスメディアは衰退が続いている。状況の深刻化が日本よりも一足先に明らかになっている欧米諸国では政策的な対応が図られつつあるが、日本でもこの先、ソーシャルメディア状況に適応した形でのマスメディアの復権をどのように構想するのかが問われることになろう。

ところで、マスメディア(総合編成のテレビ放送や、政治面から家庭・文化面まで広く扱う新聞)によってパッケージとして情報が提供される方法が廃れ、個々の情報を選択的に摂取する形で情報に接するようになった結果、情報の受け手の自律性や選別・判断能力の有無が正面から問われる状況になった。

玉石混交の情報が吟味されることなく情報空間に放出されることにより、人々の情報選別・判断能力の限界の問題が顕在化している。この点、アルゴリズムの助力を得て、各人の考えに合致した情報を選択的に摂取できるようになっているわけである。選択的接触が強まる結果、自らのバイアスを強化するような情報にばかり接することになる。

さらに、ソーシャルメディア上で個人は、フォローする人物を選択することも含め、接する情報をあらかじめ何らかの形で設定することになる。さらに、ソーシャルメディアは、当該個人が接している情報から、その者が好みそうな情報やユーザーを提案し、それを受け入れることによって更にパーソナライズされた情報に接触することができる。

このことは、効率的な情報収集にとって有益であることはもちろんではあるが、他方で、前述のように、本人がもっているバイアスを強め、その者の思想や行動を極端なものにしていくおそれがある。さらに、ソーシャルメディアがもつ、個人の趣味嗜好に合わせた情報を提供する能力は、政治的あるいは商業的な動機に基づいて個人を積極的に操作する行為にも利用される可能性がある。

要するに、思想の自由市場の理想に近い姿が現実のものとなった結果、①市場に流通する情報量は多ければ多いほうがよい、②そのためには国家の介入は少ないほどよい、③情報の受け手は自律性を有し、情報の選別・判断能力を備えている、といった自由市場論の前提のゆらぎ、あるいは楽観性が顕になってきていると言える。

そうすると、国家介入をひたすらに拒絶するのではなく、一定の国家介入が求められることを前提に、その適切な姿を議論する姿勢が今後は求められる。情報空間政策の必要性である。

求められる「情報空間政策」

情報空間政策という言葉で筆者が言おうとしているのは、一言で言えば、公共的な情報が十分に、信頼性の確保された形で供給され、それがあまねく国民に届くことを確保するための政策のことである。これまでは、こうした問題意識は主に放送政策において意識されており、活字メディアに関しては、個別的・断片的に議論されるにとどまってきた。

しかし、今日では、新聞やテレビの危機的な状況は、取材、記事・番組の作成・制作、紙面の配達や放送に至るまでをそれぞれの企業が責任をもって行う垂直統合モデルの衰退を意味している。今や、報道機関たるマスメディア企業は、自ら取材・作成した記事等を、プラットフォーム事業者のサービスを通じて配信しつつある。このような状況においては、コンテンツの作成、配信をそれぞれ誰が担うのか、また、過疎地在住の人々やハンディキャップのある人々、あるいは経済的に困難を抱える人々がそれにどのようにアクセスできるのかなどの点に配意し、全体として整合性をもった姿を実現する必要がある。

情報空間における情報提供のあり方を考えるに当たっては、引き続き、表現の自由、報道の自由が重要であることはもちろんである。しかし同時に、表現の自由等の制約とは異なる場面を中心に、国家による介入が求められることも今後は強調されなければならない。

つい先日、総務省「公共放送ワーキンググループ」においてNHKのインターネット業務の制度的位置づけについて取りまとめ案が示されたが、マスメディア全体に関わるものとしては、プラットフォーム事業者と記事を提供する報道機関との広告収入配分問題などがある。この問題については諸外国では法規制の試みがあるが、日本では、2021年2月に、公正取引委員会が、取引の透明性・公正性や、ポータルサイト上でのコンテンツ掲載指標の適切性の確保等が望ましいとする報告書を取りまとめ、さらに、22年11月には、ニュースコンテンツ配信分野の実態調査を開始している。

これらの多くは、これまでのような放送、新聞、インターネットの各業界内部では完結しないものであり、情報空間全体を視野に入れた検討を要する。そうすると、今後は、国として情報空間全体、あるいは少なくとも放送とインターネット全体を視野に入れた検討を行う場が必要だと思われ、新聞社など活字メディアもそうした場に参加していく必要がある。そして、個々の事業者なのか、新聞協会や民放連といった業界団体なのかはともかく、政策論議に参加する際には、法制面やインターネットの実情に関する十分な知識と情報を踏まえ、情報空間のあり方についてそれぞれの構想を提示する用意が求められよう。

この点、伝統的に日本のマスメディア企業には、法制度を自らを縛るものであるとして警戒的に見る捉え方が根強いと言われてきた。しかし、適切な規律や政策は、メディアの機能を発揮するために不可欠な側面もあるのであって、上記のような捉え方は一面的であると言わざるを得ず、法制度に関する考え方の転換が求められる。

第二に、メディアが公共的な情報を十分に、信頼性の確保された形で供給できるためには、様々な「特権」が不可欠であるが、それを維持するためには国民の信頼と理解とが不可欠であるということである。ここで「特権」とは、記者会見への出席や法廷傍聴の際などの便宜供与(記者会見はメディア側主催のこともあるので便宜供与とばかりは言えないがそれはおく)、判例で一定程度認められている取材源秘匿権、個人情報保護法の適用除外などの取材・報道に直接関わるもののほか、消費税軽減税率の適用、再販制度・特殊指定等々、多様なものが含まれる。

これらは、メディアが上記のような役割を果たすために必要なものであるが、それぞれの制度の原則から見れば特例であり「特権」であって、その「説明責任」はメディア側にある。メディアの変わらぬ役割について説明を尽くすとともに、時代によって変化していく部分については適切に対応し、国民の信頼を確保するよう努めなければならない。

 

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