情報モラルとメディア・リテラシーの違い(下)~森本洋介

2026.04.10
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前編では、メディア・リテラシー(以下、ML)と情報モラルの概念の区別がついていない現状について訴え、まずは情報モラルとその発展・拡張概念であるデジタル・シティズンシップについて説明を行ってきた。後編ではMLとは何かについて説明した後、結論として情報モラル(ないしデジタル・シティズンシップ)とMLの両方が学校教育には必要であるということを述べていきたい。

森本洋介
1980年生まれ。弘前大学教育学部准教授。
京都大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。専攻は比較教育学、教育課程論。著書に「メディア・リテラシー教育における「批判的」な思考力の育成」(東信堂、2014年)、「第5章 日本のメディアリテラシー教育の歴史的潮流」(「メディアリテラシー 吟味思考(クリティカルシンキング)を育む」坂本旬・山脇岳志編著、時事通信社、2022年)、「子どもたちのクリティカルな思考を育む メディア・リテラシー教育の理論と実践」(ミネルヴァ書房、2025年)などがある。

メディア・リテラシーとは何か

そもそも、MLが情報モラルとの混同を引き起こしている背景には、日本におけるMLの概念理解の歴史が複雑であることが挙げられる。拙著稿(森本,2022)に詳しく書いてあるため、興味のある方はそちらをご覧いただきたいが、すべてをそちらの説明に委ねるわけにもいかないので、簡単に日本のMLの理解をめぐる歴史を述べる。

表2 日本におけるMLの歴史的展開のまとめ

表2のように、日本においては主に学校教育では「メディア=コンピュータ」の使い方を教えるものとしてのMLないしML教育が展開され、放送教育やICT教育と混同されるような理解がなされる傾向にあった。またマスコミ業界では情報活用との関係で学校と連携してMLを展開(例えば「教育に新聞を(NIE)・学校などで新聞を教材として活用する活動」や、放送局がニュース分野で学校と連携する等)する動きが見られた。そこではプロの情報発信者と一般の情報受信者が共同して活動することによって互いの距離を縮め、相互理解を図ろうとする傾向が強く、「批判的思考力」の育成が後退しているようにも見える。他方で市民活動や社会教育の分野では「批判的視聴能力」が強調される場合もある。つまり日本ではMLの理解が多方面から起こり、かつ基本的にその方面の内部でのみ理解が共有され循環するという傾向があり、同じMLという言葉を使っていても、お互いの分野でそれぞれ理解が異なるという状況が生まれている。この状況において、なぜ「情報の真偽を判断する能力」という認識が生まれたのかは定かではない(あくまで仮説だが、「批判的思考力」=「見極める力」のような理解から飛躍したのかもしれない)。私が断定できるのは、「情報の真偽を判断する能力」には何ら科学的根拠がないということだ。

MLは、確かに国際的に統一された定義が存在していないのだが、私は学問的背景や歴史から、「メディア情報をそこに付随するイメージや固定観念も含めて『批判的(客観的・分析的・多面的)』に考える思考力・判断力、また『批判的』に考えて情報を発信する表現力であり、民主主義社会に生きる市民にとって必要な能力」と定義している。具体的な内容は拙著(森本,2025)に委ねるが、欧米のML学者から起源を紐解いていくと、社会学を基盤とするカルチュラル・スタディーズ、そしてさらに源流をたどるとソクラテスやアリストテレスの哲学へと行き着く。ソクラテスの哲学においては、問答(対話)によって、人間の思考がより深く、広くなっていく(啓蒙される)のであり、問われる側は自ら考える力を獲得していくことになる。一方で問いを投げかける側の「問う力」も重要となる。問いを投げかける側が「問う力」を高めるためには、自らも常に自分や周囲に対して問い続けることが必要となる。すなわち、批判的思考力の獲得が必要である。

活版印刷術も新聞もない紀元前にはいわゆるマスメディアがない(ただし情報発信・収集はいろいろな形でしていただろうから、「メディア」は存在していた)状態であったが、新聞やラジオ、映画、テレビの登場により、情報が大量に、即時に伝えられる状況が生まれ、カルチュラル・スタディーズの研究対象となっていく。結果として、上述したような私の定義が生まれてくる。少なくとも、アメリカのML教育者であるホッブス(Hobbs,R.)やイギリスのML教育者であるバッキンガム(Buckingham,D.)も同じような考え方(定義の表現はかなり異なるが)をしている。MLの特徴は、批判的思考の対象が、イメージや価値観にまで及んでいることであり、また活字だけでなく映像や音声も「読まれる」対象としての言語だと認識されていることである。そしてMLを獲得することで、どれだけ多様な情報が得られたとしても、それに惑わされることなく自分なりに「こう考える、こう動く」という主体性が身につく、すなわちエンパワーされるのである。

この説明で、明らかに情報モラルとMLは性質、ベクトルが異なるものであることがご理解いただけるはずである。前編で保護主義とエンパワーメントの違いを説明したが、あらためて保護主義(情報モラル)とエンパワーメント(ML)の立場の違いを具体的な事例で説明しよう。例えば、有害かどうかの判断が難しいサイトがあったとする。保護主義(情報モラル)の立場の場合、まずそのサイトをフィルタリング(アプリが有害と判断したサイトを自動で遮断し、閲覧できないようにする機能)にかけることが前提である。フィルタリングに引っかからなかった場合、利用者がそのサイトを一読して、「危なそうだ」と判断すればそのサイトをすぐに閉じるように指導する。

一方でエンパワーメント(ML)の立場の場合、フィルタリングにかけるかどうかは個人の判断である(フィルタリングはフィルターする基準をプログラムを開発した人が判断しているにすぎない)。そしてそのサイトに対して、誰が作成したのか、情報を掲載しているのは誰か、なぜそのような情報がこのサイトに掲載されるのか、他にこのサイトを利用していると考えられるのは誰か、など、多角的にそのサイトを分析する。良い/悪い、有益/有害といった価値判断はそれらの分析の途中や分析後で自分自身が判断することであり、フィルタリングソフトや他の大人が判断することではない。仮にそのような判断を押しつけられたとしても、それは参考情報の1つとして自分自身の判断材料にするのである。このように、情報モラルとMLはベクトルの向きが180度異なる考え方をしている。

デジタル・シティズンシップとメディア・リテラシーの関係

情報モラルとMLの関係、すなわちまったく方向を異にする能力概念であることの説明をここまで行ってきたが、読者のなかには「デジタル・シティズンシップの説明で、デジタル・シティズンシップがMLを含むものであると説明された」という経験のある方もいるのではないだろうか。アメリカのデジタル・シティズンシップ教育普及団体であるコモンセンス・エデュケーションによれば、デジタル・シティズンシップの6領域として以下の領域があると説明する。

①メディアバランスと幸福(自身のデジタル生活でのメディア利用のバランスを考える)
②プライバシーとセキュリティ(皆のプライバシーに気を付ける)
③デジタル足跡とアイデンティティ(われわれは誰なのかを定義する)
④対人関係とコミュニケーション(言葉と行動の力を知る)
⑤ネットいじめ、オンラインのもめ事、ヘイトスピーチ(親切と勇気)
⑥ニュースとML(批判的思考と創造)

今度によれば「2017年4月、ワシントン州にて制定された『デジタルシティズンシップ法』にて、デジタルシティズンシップとは『今日の情報技術の利用に対して適切かつ責任を持った健康的行為の規範であり、デジタルおよびメディアリテラシー、倫理、エチケット、および安全性、メディアへのアクセス、分析、評価および解釈』を含むものとして定義された。デジタルシティズンシップの要素にメディアリテラシーが包摂されることが、ここで明確に示されたのである」(今度,2022,152頁)と説明されているが、この説明は解釈の1つにとどめておく方がよいと私は考える。

ワシントン州の法律ではデジタル・シティズンシップがMLを含むと法的に定義されているだけであり、学問的に通説となったことの証明にはなっていない。法律上の話と学問上の話は切り分けて考える必要がある。なお、同法では2017年度から、州内の教育委員会の教育委員として、デジタル・シティズンシップ、ML、インターネット安全の専門家を含めるように、との規定もあり、三者はそれぞれ専門性があることを示しているとも解釈できる。デジタル・シティズンシップがMLを含んでいるのであれば、デジタル・シティズンシップとインターネット安全の専門家だけでよいはずだが、そうはなっていない。

実際、アメリカ国内でもデジタル・シティズンシップがMLを含むという説明をしていない団体もある。2013年に設立され、全米にML教育に関する法律を制定させるロビー活動を行ってきたMedia Literacy Nowの創設者であるマクニール(McNeill,E.)はMLとデジタル・シティズンシップの関係について以下のように説明する。

メディア・リテラシーとデジタル・シティズンシップは両方とも思考する枠組みであり、態度であり、学習へのアプローチであり、そしてそれぞれお互いを補完し合うものである。メディア・リテラシー教育は企業やイデオロギー的なメディア制作者、デジタルツールの制作者を批判的に検討するスキルを発達させる。探究学習と批判的思考の方法が明らかに含まれており、エビデンスベースのカリキュラムと国際的に認知された学術的研究領域の長い歴史によって支えられている。デジタル・シティズンシップ教育では、仮想現実やロボット工学、大衆監視、AI、そして知られざる未来のイノベーションについて議論することが不可欠であり、またそれらの技術に潜在する肯定的および否定的な影響について、対話を確実に続けていく。(McNeill,2016)

 上記の引用で「それぞれお互いを補完し合う」と説明されている通り、MLとデジタル・シティズンシップは異なるものであり、また共通する部分と異なる部分がある。よってどちらかが上位概念で、片方を含むという関係ではないことがわかる。対象とするメディアについて考えてみても、少なくともデジタル・シティズンシップはインターネットが対象であるが、MLはインターネットを含むさまざまなメディアが対象である。またデジタル・シティズンシップはインターネット技術の知識を理解し、そのうえで自分がどのように行動するのかを判断し、安全と健康に気をつけながら積極的にインターネットを利用することを奨励する。一方でMLはメディアについて知識を獲得し理解するところは共通するが、メディアを介して流通する情報についてクリティカルに思考し、判断し、表現することを求め、リプレゼンテーションというイメージに関する基本概念の理解も必要となる。

国際教育テクノロジー学会(ISTE)が定義するデジタル・シティズンシップは個人の責任に重きがあり、MLは社会正義の原則と批判的な視点を強調する、という説明もある(坂本,2022)。このように、情報モラルの発展・拡張概念であるデジタル・シティズンシップは、MLとの関係においても情報モラルと大きく異なるとは言えない。つまりどちらかがどちらかを含むという関係ではなく、互いに独立して相互補完する関係にあるのではないか。

情報モラルとメディア・リテラシーを両輪で回していく教育へ

私は、MLがすばらしくて情報モラルが時代遅れだとかを言いたいわけではない。上述したように互いに相互補完する関係であるため、両方とも必要である。特に小学校低学年か中学年までは情報モラルを中心に教育で扱い、その情報が有害か否かや、リスク判断の基準をある程度子どもに示す必要があると考えている。しかし、小学校高学年(思春期に入る辺り)からはML教育を中心に行う必要があると考える。日本の学校教育は、中学校、そして場合によっては高校でも延々と情報モラル教育を行っている。中学生、ましてや高校生は、「そんなこと言われなくてもわかっている」と言いたいのではないだろうか。オーストラリアで2025年12月10日に16歳未満のSNS使用禁止の法律が施行されたが、隠れて利用している子どももいるとされる(テレ朝NEWS,2025)。規制は必要であるが、それだけでは解決できないことも多くある。エンパワーメントは、何でもかんでもやらせてあげようということではない。行動する人(主体)が、責任と自覚を持って行動できるようにするため、その人を信頼し、環境を整備し、自己の判断が十全にできるように支援することが必要となる。人間は大人になれば正しい判断ができるようになるわけではない。情報モラル教育のみで育った子どもが、大人になれば主体的に正しい判断ができるようになるという保証がどこにあるのだろうか。実際にはそうなっていないという事例は、選挙における偽情報・誤情報の蔓延や、コロナ禍でのトイレットペーパー騒動のように枚挙に暇がない。日本の学校教育は、10代の若者に対して情報をクリティカルに考えるという活動をどれだけやらせてきただろうか。

実は欧米でもMLと情報モラルが混同されて理解されるケースがしばしばある。先述したイギリスのML教育学者であるバッキンガムは欧米の教育現場一般の考え方として「メディア・リテラシーはテクノロジーの効果を最大化する手段であると広く認識されているようだ。(中略)テクノロジーについてクリティカルに考えることはあまりなく、情報の評価をすることもあまりない。(中略)子どもにプログラミング言語を教え、ウェブを効率的に検索させるが、ソーシャルメディアやテレビゲームなど、子どもが毎日利用するメディアの利用について考えさせることはない」(Buckingham,2019,p.30)と述べ、ML教育がICT教育の一種であるかのように認識されているとする。そして、保護主義的な考え方に対して「研究が明確に示しているのは、社会における暴力は多様で複雑な要因から発生し、単にメディアのせいではないということである。子どもに対して、映画が見せているのは悪いことばかりであると教えるだけでは暴力はなくならないし、テレビを見るのをやめたりソーシャルメディアの利用をやめたりすることによって暴力がなくなるわけではない」(Buckingham,2019,p.31)と批判する。

情報モラルに対しても「子どもに対して安全なインターネットの利用の仕方やプライバシーの守り方、『不適切な』コンテンツを見ないようにする仕方、事実と異なるフェイクニュースについて教えたとしても、暴力はなくならない」(Buckingham,2019:32)としたうえで、「情報モラルの考え方では、なぜ若者がメディアに対してこうも惹きつけられるのか、夢中になっているのかを見過ごしてしまう。(中略)メディア・リテラシーは規制に頼るのではなく、自らを『エンパワーメント』する能力であると認識されてきた」(Buckingham,2019,p.33)と主張する。バッキンガムの主張からすると、情報モラルには一定の有効性があると認めつつも、メリット/デメリットや「光と影」のような表現が、テクノロジーを使う人間の問題を見えなくしているのだということである。テクノロジーはそのものが良い/悪いのではなく、結局はそれを使う人間の問題だと考える必要がある。「光と影」のような表現は格好よく聞こえるかもしれないが、メリット/デメリットという二元論的な考え方に単純化させることで、テクノロジーを使う側の根本的な問題を覆い隠してしまう。包丁というテクノロジーがあり、料理のために使うことも、人間を傷つけることに使うこともできる。包丁で人を傷つけた場合、多くの人は包丁を問題にすることはなく、扱った人間を問題にするはずである。しかしインターネットというテクノロジーは、その複雑さゆえ、扱う人間の存在を覆い隠し、テクノロジーの問題として扱われる傾向にある。だからこそ、インターネットの使い方や、トラブルの事例、マナーの問題、著作権やインターネット上の用語といった基礎知識は知っておくべきである。

個人的な印象としては、現行の学習指導要領の枠組みで言えば、情報モラルの場合「知識・技能」が7割、「思考力・判断力・表現力」が1割、「学びに向かう力」が2割であり、MLの場合「知識・技能」が2割、「思考力・判断力・表現力」+「学びに向かう力」が8割といったところである。物事を考え判断するためには、ある程度の知識が必要である。新聞でなぜそのような情報が流れるのかを考えるためには、新聞社という組織(収益構造や編集過程、社の成り立ち等)、記者の役割等についてある程度知っておかなければ、適当なことを言ってお終いである。新聞の比較読みをする際に、「A社とB社で書いてあることが違うね」だけでなく、なぜA社とB社がそのような論調で、視点が異なるのかまで考えるのがMLである。また、インターネットの市民ジャーナリズムの記事と、大手新聞社の記事を読み比べる際に、インターネットメディアの特性も知っておかなければ正確な比較にはならない。情報モラルのような「知識・技能」が主となる教育については日本人が戦後長らく行ってきた得意分野であり、教授法や授業の進め方が比較的わかりやすい。一方で、MLのような「思考力・判断力・表現力」が主となる教育は21世紀に入ってから強調されてきた(「主体的・対話的で深い学び」のように)分野であり、未だにどのように進めていけば良いのか困っている教員も多いだろう。

繰り返しになるが、情報モラルとMLのどちらが優れているとか、どちらかだけ必要であるかということを言っているわけではない。両方とも必要である。しかし、ある子どもに対して常に両方を取り扱うわけではない。例えば10歳ごろまでは情報モラルを中心に、それ以降はMLを中心に、といったように学年や校種で取り扱いの軽重をつけていくことが理想である。なお、MLをどのようにどの学年や校種で行っていくのかについては、拙著(森本,2025)やスマートニュースメディア研究所のホームページで紹介されている取り組み等を参考にしていただきたい。


参考・引用文献

  • Buckingham, D. (2019) The Media Education Manifesto. UK: Polity Press.
  • 今度珠美(2022)「第6章デジタルシティズンシップとメディアリテラシー:情報モラル教育と何が違うのか」坂本旬・山脇岳志編著『メディアリテラシー 吟味思考を育む』時事通信社、145~159頁
  • McNeill, E.(2016) Linking Media Literacy and Digital Citizenship in the public policy realm To be a citizen and participate fully, one must be literate. Literacy today means media literacy, which relies on technology, which today is overwhelmingly digital. retrieved from https://medialiteracynow.org/linking-media-literacy-and-digital-citizenship-in-the-public-policy-realm/(2026年3月18日確認)
  • 森本洋介(2022)「第5章 日本のメディアリテラシー教育の歴史的潮流」坂本旬・山脇岳志編著『メディアリテラシー 吟味思考を育む』時事通信社、124~144頁
  • 森本洋介(2025)『子どもたちのクリティカルな思考を育む メディア・リテラシー教育の理論と実践』ミネルヴァ書房
  • 坂本旬(2022)『メディアリテラシーを学ぶ:ポスト真実世界のディストピアを超えて』大月書店
  • テレ朝NEWS(2025/12/19)「豪でSNS禁止法 施行1週間“抜け道”探す若者 一方で思わぬ変化も 日本は必要?」https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/900180180.html(2026年4月1日確認)